1980年代、日本車の主流はセダンだった。メーカーはしのぎを削るように、性能アップや、サイズアップなどの商品力向上にはげんでいた。そのがんばりを見ているのが、なんとも楽しかった時代である。
セダンは言うまでもなく、日本車の黎明期から中心的な車型である。1980年代の特徴は、バラエティがゆたかになった点だ。走行性能が向上するとともに、多くのセダンの駆動方式がそれまでのRWD(後輪駆動)から、パッケージングにすぐれるFWD(前輪駆動)へ移行した。
メーカーの技術力がどんどん上がっていったこの時代、ハイパワーを吸収する4WD(全輪駆動)も登場するようになる。RWDはちょっとスポーティ、FWDはファミリーや商用……と、すみわけも進んだ。ようするに、セダンの多様性がひろがった時期なのだ。
ここで採り上げるモデルは、地味といえば地味だけれど、1980年代をなつかしく思い出させてくれるものばかり。前輪駆動のモデルは、発表時つねに「今度はどれだけ広いの?」という興味をかきたててくれたものだ。
最近、欧米のセダンに乗ると、出来がいいので驚くときが多い。メルセデス・ベンツ「Sクラス」を筆頭に、アウディ「A3」と「A4」、アルファロメオ「ジュリア」、キャデラック「CT5」など、印象に残るモデルがどんどん出てきている。いっぽう日本では、というと、手放しでほめられるセダンがごく少なくなった。1980年代から1990年代を知る身としては、さびしいかぎりなのだ。
(1)トヨタ「カリーナ」(5代目)
前輪駆動化したカリーナとしては2代目だ。2525mmのホイールベースに、全長4380mmの4ドアボディの組み合わせ。自動車デザインの定石を意識するトヨタ自動車の伝統で、4ライト(リアクオーターピラーに窓をもたない)のドライバーズカーとしてデザインされた。
カリーナはおもしろいクルマで、前輪駆動化されたのは、先述のとおり1984年の先代。ただし1981年に後輪駆動のまま、スポーティな雰囲気を活かしたフルモデルチェンジを受けており、後輪駆動版も1988年まで生産が続けられた。
しばらくのあいだカリーナには「カリーナ」と「カリーナFF4ドア」というふたつのモデルが存在した。運転しておもしろかったのは前者。前輪駆動版はカローラのお姉さんという位置づけだった(じっさいはコロナと中身は同一)。
ガソリンエンジンは、1.5 リッター、1.6リッター、それに1.8リッターが用意された。すべてエンジンヘッドがDOHC化されていたのは、“大衆車(などと当時は呼ばれました)でも高性能スペック”を、という時代背景を感じさせる。
1992年にフルモデルチェンジ。時代の要請で安全性が高められたのが特徴であるものの、保守的なイメージのスタイリングなどは継承。カリーナに冒険させないのも、ユーザーのニーズをしっかり見据えたトヨタの商品戦略と感心したものだ。
(2)日産「リベルタビラ」(2代目)
そもそも日産「リベルタビラ」は、全長4m少々のコンパクトなサイズのセダンを、という市場の要求から生まれた車種。1982年にパルサーをベースに初代が開発され、1986年にフルモデルチェンジを受けた。
当時は、ハッチバックからノッチバックセダンを作る、というケースが多かった。フォルクスワーゲン「ゴルフ」から「ジェッタ」が生まれるなど海外でも、ノッチバックの需要はそれなりに多かった。独立したトランクルームは、荷室がのぞけないので車上荒らしに遭う確率が低くなる、などと欧州人は言っていた。そういう理由はたしかにあったかもしれない。
2代目はホイールベースが15mmだけ伸び、ボディ全長は135mm長くなった。全長4255mmのサイズは、同時期の6代目「サニー」(1985年)より100mm長いもので、サニーのすこし上のクルマを求める保守的な層をねらっていた。
エンジンは1.5リッターに加え、「1600SSS(スリーエス)」用に1.6リッターDOHCユニットを用意。ブルーバードでいちやく知られた「SSS」のサブネームを使うなど、販売はそれなりにしっかりテコ入れしようという意図があったようだ。
車重がほぼ1tと、最軽量モデルは800kgを切っていた先代より、だいぶ重くなってしまった。ボディの安全性強化のための補強など、しかたのないことである。ただし走りは期待以上にきびきびしていて、1980年代後半にスポーティなクルマづくりにはげんでいた日産自動車の”イケイケ”ぶりがわかる気がする。
この2代目では、そういえば、3ドアハッチバックが発売された。ベースになったパルサーそのものだ。当時パルサーは、日産の販売チャネルにおいてチェリー店むけのプロダクトであったのに対して、リベルタビラの取り扱いは日産店。そこでもハッチバック車を欲しがったのは、時代のニーズを映し出している。
1990年まで作られたあと、パルサーがフルモデルチェンジを受けるタイミングで、リベルタビラは生産終了になった。ブルーバードとの棲み分けの難しさも指摘されていたし、日産における販売チャネルの統廃合のあおりをうけたともいえる。
このクルマのマーケットは、大型化し、少々上級移行したサニーと、のちの「ブルーバード・シルフィ」が引き受けた。
(3)ホンダ「バラード」(初代)
ホンダがこれまで手がけたなかでもっとも地味なモデル、といってもいいかもしれないのが、1980年に発表された初代「バラード」だ。それなりに品はあるので、そこは魅力的だ。
2代目「シビック」(1979年)のシャシーを使って開発されたモデルで、販売チャネルが異なるシビック・セダンの姉妹車。ユニークなのは、シビック・セダンと異なる車種構成をもっていたこと。シビック・セダンの1.5リッターエンジンのみのところ、バラードでは1.3リッターもあった。
エクステリアも、シビック・セダンが、ハッチバックゆずりの丸目2灯のところ、正方形に近い比率の四角いヘッドランプをもち、ボディ側面のキャラクターラインの入れかたも独自だ。
インテリアも同様。シビック・セダンより一歩先に進んだ印象である。計器盤は同軸メーターでなく、速度計と回転計が並んだ一般的なものに変わった。シートも2トーンの表皮など雰囲気がよかった。
シビックと共通なのは、コンパクトなボディだ。全長も4095mmで、ホイールベースは2320mm。当時としても小さく感じられたほどだ。でも、都市型セダンとして、いまならあえて評価したいサイズだ。
当時のホンダは、生産設備の関係で大きなクルマを作ることが出来なかった。当時のカローラ(全長4050mm)やサニー(同4065mm)のマーケットで勝負できるセダンとして登場。しかし、カローラは1983年にホイールベース2430mmの前輪駆動にフルモデルチェンジ。パッケージでかなわなかった。
英国でも生産されていたため、グローバルなデザイン感覚ではシビックが一歩先をいっている感はあった。ただし、前輪駆動化したカローラが、欧州的なハイデッキ(厚いトランクをもったくさび型スタイル)に変身したため、バラードの専売特許というわけにはいかなくなった。
初代バラードは1983年までと比較的短いモデルライフだった。2代目はワンダーシビックとシャシーを共用。印象はぐっとはなやいだ。この頃からホンダのデザインはおおきく変わっていくのだ。
(4)三菱「ギャラン」(6代目)
1987年に発表された三菱「ギャラン」は当時の日本車の技術の粋を凝らしたセダンだった。販売店対策でハッチバックにトランクをくっつけたようなクルマの対極である。DOHCターボエンジンをはじめ、四輪駆動、四輪操舵、アクティブサスペンション……なんでもござれの内容だ。
当時の三菱は、世界規模のレースに熱心で、1967年からの世界ラリー選手権と、1983年からの(パリ)ダカールラリーでは、優秀な成績をあげ続けていた。
1973年から「ランサー」で挑戦したラリー選手権では、参戦した年に豪州「サザンクロスラリー」で1位から4位を独占という華々しい成績を記録した。1974年には「サファリラリー」で優勝するなど、大きな話題を呼んだ。
1981年にはフルモデルチェンジを受けた「ランサーEX2000ターボ」を投入。ただし、アウディなど競合チームのポテンシャルがケタ違いに上がっていたので、成績はかんばしくなかった。ふたたび表彰台に立つために開発されたのが、「ギャランVR-4」だった。
4WDを採用したギャランVR-4は、1988年にデビュー。1989年に「1000湖ラリー」で優勝。さらに英国「RACラリー」でも優勝と、1992年までのあいだに5勝をあげた。VR-4 RSというモータースポーツベース車も発売され、ラリーのイメージを濃厚にもつセダンだった。
ただし、このギャランの量産車のイメージは、どちらかというと重厚。2600mmあるホイールベースに、全長4530mmのボディを組み合わせ、かつボディのデザインも、サイドウィンドウ下の、いわゆるショルダー部をふくらませるなど、グラマラスと表現されるような手法だった。
1992年登場の次世代「ギャラン」はさらに、4輪マルチリンクサスペンションをはじめ、「ファジイ・トラクションコントロール」や「アクティブプレビューECS」(路面状況を事前に察知してダンピングをつねに最適変化させるシステム)など、三菱自動車のもてる技術のさらなるオンパレードとなった。
話を今回の6代目に戻すと、当時、三菱自動車と提携関係にあったAMG(現メルセデスAMG)がエンジン部品をあれこれ交換してチューニングした「ギャランAMG」や、のちの「同タイプ2」なども発売された。とにかく、あれもありこれもあり、とバブル期ならではのスポーティセダンである。
三菱自動車はのちにモータースポーツから撤退。せっかく歴代の「ランサーエボリューション」で築き上げてきた名声も捨てさってしまったのは、ファンには惜しいかぎりだ。
2021年5月11日の記者会見で同社は、しかし、モータースポーツ部門として当時さかんに活動していた「ラリアート」を復活させると発表。これからは、かつてのギャランVR-4のようなエンジン車でなく、EVレースに手を染めていくことになるかもしれないとはいえ、うれしいニュースである。
(5)マツダ「カペラ」(5代目)
メーカー間の技術競争が白熱していた1980年代後半のセダン市場。マツダは1987年に「カペラ」をフルモデルチェンジして、技術で売る三菱などと正面から対峙した。当時マツダと提携関係にあった日本フォードでは「テルスター」の名で販売されたモデルでもある。
1982年の先代よりホイールベースが65mmも伸びて2575mm(当時でもやや控えめな長さではあったが)になり、ボディのバリエーションも増えたのが特徴だ。
メイン車種を、日本では人気の低いハッチゲートを備えた5ドアボディとしたのも、大胆だった。自分たちの信じる道を行くマツダの思いきりのよさが、当時のファンには魅力的だったのも事実だ。ただし、4ドアノッチバック(通常のセダン)や2ドアクーペ、さらに大きな荷室を持つステーションワゴンまで用意するマーケティング手法は忘れなかった。
エンジンは、ガソリンが1.6リッター、1.8リッター、2.0リッター。くわえて、マツダでは「プレッシャーウェーブ」と独自の名を冠したスーパーチャージャー装着の2.0リッター・ディーゼル車もあった。
4輪操舵や電子制御ダンパー、通気式ディスクブレーキや、4輪ABS、さらにフルタイム4WDモデルの設定と、あたらしい技術を次々に盛り込んだのも、販売チャネルを拡大するともに、技術力でライバルを圧倒しようとした当時のマツダの象徴的なクルマだった。
スタイリングのイメージは、品がよく好評だった先代のキープコンセプト。1988年のクーペ「C2 GT-R」はブリスターフェンダーをそなえるなど、1989年に登場する日産「スカイラインGT-R」を迎え撃つ気満々かと思わされたものだ。ただしパワーでまったく歯がたたなかったのが残念である。
この4代目カペラは1994年まで生産されるものの、1991年に上級移行をめざしていたマツダでは「クロノス」と(いきなり)名称変更。カペラの名はほぼ途絶えることになった。それでもバブル経済崩壊とともに、多チャネル化をあきらめたマツダでは、クロノスも断念。1994年のフルモデルチェンジで、ふたたびカペラの名が復活した。
文・小川フミオ