MOTORCYCLES

ベネリの’50年代を支えた”ライオンの仔”──珠玉の1950年代イタリアンモーターサイクル Vol.2

多くのエンジニア達が最高のバイク造りに試行錯誤していた1950年代、イタリアのバイク史のなかで最もバラエティが豊かで、エネルギッシュだった時代といえるだろう。そんな”イタリアンモーターサイクルが最も美しかった時代”を、振り返っていきたい。vol.2では”チンケ・グランディ”(ビッグ・ファイブ)の一翼を担った古豪メーカー、ベネリを取り上げる。
Benelli Leoncino S53|ベネリ レオンチーノS53

この1958年型とされるレオンチーノはアルゼンチンで発見された希少な生き残りであり、アルミ製フェアリングには、「A.パローロ」とライダーの名が記されていた。

第一次大戦後復興期、バイク製造を始めたベネリ

日本同様イタリアでは、第2次世界大戦後に多くの2輪製造業者が誕生しているが、戦前は世界的にはプレゼンスがほぼ皆無だった日本製バイクと異なり、イタリアには戦前から”チンケ・グランディ”(ビッグ・ファイブ)と呼ばれる5大ブランドが存在し、欧州の公道車マーケットやモータースポーツの舞台で活躍していた。

ビアンキ、ジレラ、ガレリ、モトグッツィとともに”チンケ・グランディ”を構成していたベネリは、1911年ペーザロの地に創立された会社だった。”ライオンハーテッド”(勇敢)な未亡人テレサ・ベネリは6人の息子たちの将来を考え、亡夫の資産すべてを息子らの将来の事業に投資。そして、長男ジュゼッペと次男ジョバンニをスイスへ留学させ、工学の基礎を学ばせた。

1957年型レオンチーノF3。12bhpの最高出力を発生する2ストローク125cc単気筒エンジンにより、130km/hの最高速を可能としていた。

まだ幼かった末弟のトニーノことアントニオを除くベネリ5兄弟と、6名の従業員が働いていた創業当初のベネリは、自動車、バイク、そして銃などの修理を業務としていたが、やがて自動車や航空機の部品製造へと進出する。1914年に勃発した第1次世界大戦による需要増により、ベネリは会社としての成長の足掛かりを築くことになる。

第1次世界大戦後、ベネリは戦後復興期に求められた簡便な交通手段としてのバイク製造を手がけるようになった。1920年には、同社初の自社製エンジン(2ストローク75cc単気筒)を製作。そして1921年には98ccの2ストローク単気筒を、著名なフランス製モペッドのベロソレックス同様自転車フレームのステアリングコラム側に搭載し、前輪を駆動する初のベネリ製バイクを完成させている。

1966年型モトビ125コルサ。後に世界GP王者となるユージニオ・ラザリーニらのライディングで、イタリア国内選手権125ccクラスを6度制覇しているマシンだ。

その後ベネリは、年毎に125cc、175ccと扱う排気量レンジを拡大する。モータースポーツの世界でも頭角を現し、優れたライダーだったトニーノは、4ストローク単気筒のベネリ175を駆って幾度も国内選手権タイトルを獲得した。また当時の最高峰国際レースのひとつであった欧州選手権では、カルロ・バスチェリが1932年、イヴァン・ゴールが1934年にそれぞれ175ccクラスを制した。

戦前最後のベネリのモータースポーツ界における偉業は、1939年マン島TTライトウェイトクラスでベネリ250cc単気筒を駆ったテッド・メラーズの優勝だった。このベネリの勝利はモトグッツィに次ぐ2番目の、イタリアンメーカーによるマン島TT制覇という歴史的な記録となった。

第2次大戦後に成立した世界ロードレースGPの2年目に当たる1950年シーズン、ベネリ250cc単気筒に乗るダリオ・アンブロシーニは250ccクラスで3勝をあげ見事タイトルを獲得、そして1969年にはケル・キャラザースがベネリ250cc4気筒で3勝を記録し、ベネリに2度目となるGP250ccクラスのタイトルをプレゼントした。

そもそもフライホイールマグネトーには冷却用エアスクープが設けられているが、この個体には更にシャッター付きのエアスクープが追加されていた。


1950年代、屋台骨を支えたレオンチーノ

グランプリでの活躍をはじめとする華々しいモータースポーツでの栄光が、バイクメーカーとしてのベネリの名声を高めたことは事実だが、2輪製造業者の経営が名声だけで成り立つわけではないのは、古今東西の多くの例が示すとおりだ。第2次世界大戦後まもない時代、苦境にあったベネリの経営の屋台骨を支えたのは小排気量車、レオンチーノの商業的成功であった。

欧州に甚大な被害をもたらした第2次世界大戦の影響により、1949年まで生産停止を余儀なくされていたベネリは、イタリア軍に納入前だった売れ残りの軍用車を民間用に販売することで糊口をしのいでいた。そしてベネリがバイクメーカーとなる契機となった第1次世界大戦後同様、復興の足に相応しくシンプルな機構で、かつ経済性に優れた乗り物を作る必要があると、ベネリの中心人物のひとりであるジョバンニ・ベネリは考えた。

ジョバンニの構想により1949年に生み出されたのは、吸排気弁を持つ4ストロークよりも簡素な構造の2ストローク方式の、98cc単気筒を搭載するレティツィアだった。ジョバンニの愛娘のひとりと同じ名が与えられたレティツィアをベースに、”ライオンの仔”を意味するレオンチーノは123ccに排気量を拡大し、1951年に初代が誕生している。なおベネリは創業時よりエンブレムにライオンを描いており、小排気量車の車名にライオンの仔を意味する言葉を用いたのは、実に自然なことだった。

その後1959年まで生産された”1950年代”のレオンチーノは、ノルマーレ(スタンダード)、スポルト(スポーツ)、カレナート(エンジンカバー付き)、モトフルゴンチーノ(3輪バン)、そして4ストローク単気筒版と、多種多様なバリエーションが需要に合わせ販売された。小排気量ながら、実用車としてもスポーツモデルとしても実力十分なレオンチーノ・シリーズの成功は、企業としてのベネリが戦時中に受けた物理的および経済的ダメージからの回復を助けることになったのである。

サイドナンバープレートと一体の、独特な曲線を描くシートカウル兼リアフェンダーは、長丁場のレースでお世話になるメンテナンス用の工具&スペアパーツ入れになっている。

またレオンチーノの一族には、1950年代に活況を呈したモト・ジーロ・ディタリアやミラノ-タラント用のレーシングモデルも存在している。1950年代の街道レース期の活躍の中で最も有名なのは、後にバイクメーカーのイタルジェットの創設者となるボローニャ出身のレオポルド・タルタリーニが、戦後初のモト・ジーロ・ディタリアとなった1953年に勝利したことだ。この栄光は、公道車のレオンチーノ・シリーズの売り上げを加速させることに大いに貢献することになった。

ピエロ・プランポリーニ技師がデザインしたモトビの新規軸4ストローク水平単気筒は、2ストロークのモトビエンジン同様、卵のような形状がその外観の特徴だった。

なおベネリは1973年からモトグッツィとともにデ・トマソに買収されその傘下に収まることになるが、ベネリ家が社を運営していた時代の1949年には、開発方針をめぐっての議論の末に長男のジュゼッペが社を去り、新たに「モト'B' ペーザロ」を設立している(すぐ後に、社名を短縮して「モトビ」に変更)。

1955年には、2ストローク2気筒250cc車によりミラノ〜タラントで優勝するなど、ベネリ同様にモトビは街道レースでも活躍した。だが1957年にジュゼッペが亡くなった後を継いだ息子のルイージとマルコはベネリ家の絆の修復を志向し、1963年にはそれぞれの開発の独立性を保ったまま、ベネリ-モトビグループを形成するに至っている。

文・宮﨑健太郎 写真・奥村純一 編集・iconic 協力・バットモータサイクルインターナショナル


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