若手建築家の藤村龍至が見るオリンピック・パラリンピック以後の日本とは? −前編− 都市開発と建築の関係性と変遷

日本の大規模な都市計画で、いちばん想像しやすいのが、1964年の東京オリンピックをきっかけとするものだろう。丹下健三のマスターワーク・国立代々木競技場に代表される建築群だけにとどまらず、高速道路や新幹線などのインフラも含めて多くのプロジェクトが実現した。

今回も新国立競技場はじめ、いくつかのビッグプロジェクトが誕生している。しかしそれよりもずっと難しいことをやっている開発が東京にあると、建築家の藤村龍至はいう。東京藝術大学で教鞭をとる若手建築家随一の論客でもある彼がそう語る場所。それは渋谷駅を中心とした再開発である。

前編ではオリンピック・パラリンピックと都市の関係、その特色やどういう変遷をたどってきたのかを語ってもらう。

オリンピック・パラリンピックを使って大都市を改造する

1964年の東京オリンピックは、「オリンピック・シティ」という考え方に基づいて構築されていきました。その考え方は、1960年のローマ大会から本格化した、オリンピックという機会を使って都市全体を改造するというもので、1964年の東京大会で大成功をおさめることとなります。戦後復興のシンボルともなったこの成功体験がベースとなり、他の発展途上国も倣う形が生まれていきました。

一方、最近のオリンピックはというと、2001年にIOC会長がサマランチからロゲに変わり、開催後の都市に何を残すかという「オリンピック・レガシー」がより重視されるようになりました。現代では成長を遂げた多くの都市がその成熟とともに硬直化し、解決できずにいる多くの課題を抱えています。オリンピックという大きなイベントを利用して、大都市で普段できない公共投資を集中させ、課題を解決しようという流れになってきたんです。象徴的なのが、2005年に行われた2012年大会(ロンドン)の開催都市の選考でした。 

今オリンピック・パラリンピックはだいたい7年の準備期間で動いているのですが、そこで立候補していたニューヨーク(以下、NY)がやろうとしていたのは、マンハッタンの東側を南北に流れるイーストリバーを戦略軸に据え、港湾用地や工業用地だった川沿いの土地を住宅用地として再生するとともに、東西軸に地下鉄を通し、その東西軸の地下鉄と南北軸のイーストリバーという縦軸がクロスするところに選手村を作るというプランでした。そうすることでずっと不足している住宅の供給と長年の懸案である東西の交通の問題を一挙に解決しようとしたのです。

かたや開催都市となったロンドンは、東西格差の解消を課題として掲げました。ロンドン全体が人口増加を続けていて住宅の共有が遅れているなかで、開発の遅れたロンドン東部の工業地帯の再開発を促すため、工場跡地の敷地を転用して一体的な会場とし、そこにロンドンとパリを結ぶ高速鉄道の駅を作り、ロンドン東部への不動産投資を呼び込む流れを作ろうとしました。大会が終わった後は報道センターの跡地をクリエイティブセンターとして再利用し、そことストリートアートの一大拠点・ショーディッチのクリエイテビティとつなげるのだと当時のキャメロン首相は主張していました。

このように今のオリンピック・パラリンピックでは、大きな大会を実行するための精緻な会場計画が求められ、そのために本格的な都市全体の再生プランを立案できるかどうかが問われるようになってきました。

ロンドンに破れてしまったNYですが、その時に作ったプランが政策の課題をわかりやすく市民に伝える効果に注目したマイケル・ブルームバーグ市長ら上層部らによって、プランは実行に移されることになりました。その結果、ブルックリンのダンボ地区のようなイーストリバー沿いのエリアの再生や公園の増設、広場の改造など、ニューヨークのイメージを大きく変えるプロジェクトが集中的に行われました。結果、NYは2010年代を通じて先進各国のグローバルシティのなかで大きく国際的な評価を上げ、「オリンピックを開催せずして『オリンピック・プラン』を実行した」と評されています。

東京がオリンピック・パラリンピックの開催都市として立候補を表明したのは、そうした流れのなかで行われた前回の2016年大会の選考(2009年)からです。その時のプランは当初、晴海にメインスタジアムを作るというものでした。しかし晴海には大きな公共交通がなく、選手の輸送など交通計画に不安があるということで落選しました。そこで2020年大会に立候補するにあたってはメイン会場は交通の整っている千駄ヶ谷の国立競技場を建て替えてそちらを利用することにし、晴海には選手村を作り、晴海を中心とした半径7kmに入るエリアに会場を集中させることでローコストかつ、バブル崩壊以来土地利用の転換が進んでいなかった湾岸エリアの開発を加速させるというプランが提出されました。

ロンドンのような会場を1箇所に集中させるオリンピックパーク型のプランは費用がかかるため、既存施設をなるべく使いつつ、湾岸の土地利用の転換も図るということでロンドンとニューヨークのプランのいいところを採ったような東京再生プランを提出し、開催都市に選ばれました。

本当は開催が決定してから7年の間に、東京はそのプランを実現させるために準備を着々と進めていかなければならなかったんですが、ちょうど猪瀬直樹、舛添要一から小池百合子と、都政のリーダーである知事が次々と失脚し、議論が思うように進まず、会場への輸送の要になるはずの環状2号線を通すための築地市場の移転を半年ストップさせるなど混乱を極め、オリンピック・パラリンピックを用いて東京の将来像をどう描くかという議論を深めるタイミングを逸したままコロナ禍となってしまったというのが現状だと思います。

20年掛けて課題を解決する渋谷駅

都市を「作る」から、複雑化した都市の「課題解決」という形に移行していったオリンピックの使われ方ですが、実は渋谷こそ複雑化してしまった街の象徴ともいえる場所です。都市開発は、どうしてもその時できることを優先して行ってしまいます。渋谷の場合、山手線が通り、地下鉄を地上に通し、渋谷川の上に東横線の渋谷駅が作られてしまった。さらに上に百貨店が建ちました。

そういうことをやっていった結果、いまの迷路のような渋谷駅ができてしまったんです。さらに鉄道の施設が耐震性能を満たしておらず、駅やデパートが渋谷川の上にあるので、川が氾濫したらアウト、という防災上の大きな問題もありました。渋谷には防災と乗り換え動線という2つの解けない問題が長年にわたってあったんです。解けない理由は構造が複雑すぎて膨大な費用と時間がかかることでした。しかしそれを解決する魔法が、小渕・小泉政権の時に登場します。2002年に「都市再生特別措置法」という法律が作られ、エリア限定で容積率を上げることが可能になったんです。

それまでの東京はバブルの債権の焦げ付きが原因で、不動産は投資の対象になっていませんでした。だから建設の大きな動きもなかった。そこで当時の政府は、どうやったら街が再び活性化するかということをデベロッパーにヒアリングしたんです。当時の法制度だと行政手続きにかなりの時間を必要としました。デベロッパーとしてはいつ行政の判断がでるかわからないのに投資に踏み込めません。そこでエリアを限定して「特区」として素早い意思決定をすることにしたんです。さらにそれぞれのエリアの課題を示し、解決するためのプランを提出したプロジェクトに容積率などの規制の緩和を実施しました。この規制緩和の法律が2002年にできたことで、東京や大阪、名古屋などの大都市での不動産開発は一気に息を吹き返します。六本木の東京ミッドタウンや、超高層の丸ビルが出現した丸の内や大手町や東京駅周辺エリアなどはその例の1つです。

規制緩和による開発が始まり、やがて渋谷にもその波がやってきます。耐震補強や洪水対策をはじめとする防災機能や乗り換え動線の整理、まちとの接続といった渋谷が抱く課題が、容積率の緩和によって解決の機会を得たわけです。容積率が上がれば、賃料の収入もあがります。よって経済的な問題をクリアし、渋谷の大規模な改造が可能になりました。

といっても先程話したように構造は複雑怪奇ですから、パズルを1つ1つ順番に解いていくことになります。川の上にある東横線の駅を地下に移動し、銀座線をずらして、埼京線も移動させて、と徐々にやっていかなくてはいけません。だからこの難解なパズルを解くのに20年の間工事し続けることになる。時間的にも技術的にも、とても難しい事業なんです。しかし人は20年先を見据えて工事していることを理解して駅を利用するわけではないので、わかりにくさや不便さばかりが目についてしまいますが……。渋谷は今は不便で複雑ですが、だんだん解消され、各線と出口が四方八方につながっていき、2027年には大変利用しやすい駅となる予定です。

インテグレート型のものづくりが得意な日本だから実現可能な渋谷再開発

渋谷駅周辺の再開発は、地元の人がいて、渋谷区がいて、デベロッパーがいて、東急電鉄がいて、JRやメトロやバス、タクシーもいてというように、当事者が大変多い開発です。なぜそんな社会的にも技術的にも複雑なパズルを解くことが実現したかというと、このような大きなプロジェクトには「デザイン調整」という、デベロッパーや交通事業者どうしがそれぞれのプロジェクトを持ち寄ってすり合わせる場が設けられたからです。これは日本独特のシステムなのですが、コーディネート役として建築家も開発チームに就くんです。渋谷の場合は内藤廣さんが入りました。土木では岸井隆幸さんが参画しています。このデザイン会議のメンバー側から、再開発ビルの3階までは公共のものである、という意見が出て、各施設の3階までの床面積を半分にし、公共に開いたものにしようと決められたんです。「渋谷ヒカリエ」や「渋谷ストリーム」などの平面図をみると、1階部分は半分近くが通路になっているんですよ。グローバルブランドは店舗を1階にしか出店せず、1階にどれだけラグジュアリーブランドが入り、高い賃料を得るかが商業施設の大きなカギになるのが常識というなかで、半分以上手放すのは大変リスキーです。

しかし、渋谷の場合はそのリスクを取っても、容積率を上げたほうが良いだろうということで、多くが公共に対して床を提供したんです。なので渋谷は、乗り換えの通路がベストポジションにあるというプランが実現したんです。そうするとビルからビルへ地下でも1階でも2階でもつながっているという渋谷が最終的にできる。こうやってみんながすり合わせをして一体化するみたいな開発は、実に日本的だといえるでしょう。

ものづくりや経営の分析では、「モジュラー(組み合わせ)」型と「インテグラル(すり合わせ)」型という分け方をしますが、モジュラー型とは全部を担当ごと分解し、それぞれが個々にプロフェッショナルとしてこなしていくやり方。この分業タイプは、話もスピードも早いがみんなが個別に進めるので重複も多くなる。アメリカの建築現場はこれです。一方日本のインテグラル型は、みんなで計画を持ち寄って内容をすり合わせするんです。現場で意匠や構造、設備、電気、機械が図面を持ち寄り話し合う。だから時間はかかるんだけれども一番太い梁に設備のダクトを貫通させ、薄い天井を実現するというようなことが、(すり合わせにより)実現できるんです。こういうことができるのは日本だけなんですよ。だから渋谷のような川があって複雑かつ非常にリスキーな地形でありながら、超高層ビルを何本も建て、鉄道を通し、駅も移動させる、しかも地上も地下も鉄道が通っている、というような開発が実現できるのは、日本だけなんです。NYでも香港でも実現はできない。そういう意味でも、渋谷は大変なチャレンジをしているんです。

author:

田中 敏惠

編集者、文筆家。ジャーナリストの進化系を標榜する「キミテラス」主宰。著書に『ブータン王室は、なぜこんなに愛されるのか』、編著書に『Kajitsu』、共著書に『未踏 あら輝』。編書に『旅する舌ごころ』(白洲信哉)、企画&編集協力に『アンジュと頭獅王』(吉田修一)などがある。ブータンと日本の橋渡しがライフワーク。 キミテラス(KIMITERASU)

この記事を共有