ARCHITECTURE

五輪で世界の目が集まる東京に残る、訪れるべき江戸の名建築、私的ベストテン──東京でみつける江戸 最終回

この連載をまとめた『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)が刊行された。著者・香原斗志によるベスト・江戸スポットを紹介する。

最短で江戸を実感するために

オリンピック開催都市として世界の注目を集める東京は、150余年前までは江戸だった。その江戸は水と木々に囲まれ、当時としては先進的な水道網が整い、清潔で活気がある町だった。欧米より先に人口100万に到達しながら、街々は人間的な尺度で構成され、水辺が近く、絵になる自然が随所に残る、エコロジカルで美しい町だった。

残念ながら、明治維新、関東大震災、太平洋戦争、そして戦後の開発を通じて、江戸の面影は破壊しつくされた。だから面としての江戸は、視覚的にほぼ存在しない。しかし、江戸遺産は点としてならば、案外、各地に残っている。

江戸遺産を紹介してきたこの連載に大幅に加筆、修正を加えた『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)が、このたび刊行された。東京にお住いの方、東京を訪れる方にとっては、各地域の来歴を知り、そこに残る遺産を見逃さないために必携の本だと自負している。また、東京を訪れる機会はなくても、日本の首都の意外ななりたちと特徴を知る、よい手引きになるはずだ。

この連載を締めくくるにあたり、書籍にも記さなかった特別なガイドをしたい。江戸の名建築ベストテン。私が独断で選んだものではあるけれど、忙しい方にとっては、最短で江戸を色濃く実感するための手引きになるだろう。書籍とあわせて江戸を感じていただきたい。

後楽園得仁堂

第10位には、水戸藩徳川家上屋敷の庭園だった後楽園(小石川後楽園)に残る、17世紀後半の建築、得仁堂を選んだ。地味だと指摘されそうな選択をした理由は、ひとつは江戸の面積の半分を占めた大名屋敷に現存建造物がほとんどないなか、創建された位置に現存していること。

2つめの理由は、得仁堂の由来に関係する。この堂は徳川光圀が、尊敬する古代中国の隠者で儒教の聖人である伯夷と叔斉の木造を安置するために建てた。この2人は、尊王思想を中核とする水戸学の祖である水戸光圀の原点で、水戸学が明治維新を思想的に支えたことを考えると、歴史を用意した建築という見方もできる。もっとも、私自身は江戸をむやみに破壊した点ひとつとっても(ほかに理由は山ほどあるが)、明治維新が好きではないのだけれど。

雑司ヶ谷鬼子母神堂

第9位は、雑司ヶ谷の鬼子母神堂。参拝する際に対面する拝殿、続く相の間は元禄13年(1700)、本殿は寛文4年(1664)の建立で、一体となった権現造の3棟が国の重要文化財に指定されている。権現造はのちに登場する根津権現や上野東照宮と共通する神社建築だが、この鬼子母神堂は日蓮宗の寺院に属している。どういうことか。

鬼子母神は釈迦に諭され改心したという仏教由来の神だが、鬼子母神堂では神事系の祭礼が行われていた。とはいえ、中世から江戸時代までは多くの神社を寺院が管理し、境内に神宮寺があるのが当たり前で、祭礼も仏教色が色濃く、神と仏は事実上一体だったのだ。ところが、明治政府は天皇の権威づけに神道国教化をたくらみ、神仏分離を無理強いした。その結果、多くの神社で仏教色が排除されたが、鬼子母神は仏教の護法神であったため、逆に神道色が排除され、仏教寺院として位置づけられた。それでも神社建築であるなど、いまも神仏習合時代の空気が色濃く感じられる。そこに価値がある。

江戸城清水門

北の丸、護国寺、東大赤門、根津権現

第8位は、江戸城旧北の丸(現北の丸公園)の清水門。高麗門と渡櫓門からなる枡形虎口で、国の重要文化財である。高麗門の扉釣金具に刻まれた銘から、明暦3年(1657)の大火で焼失し、直後に再建されたと考えられている。近くの田安門には寛永13年(1636)の銘があり、明暦の大火でも焼けなかったと考えられているが、あえて清水門を選んだ。江戸城内の通路は現在、自動車が走れるようにほとんどが舗装されているなか、清水門の周囲だけは未舗装で石段のほか下水道なども残り、江戸時代の状態がほぼ維持されている。その点で希少な遺構なのだ。

護国寺観音堂

第7位は、護国寺観音堂。護国寺は五代将軍徳川綱吉が、生母である桂昌院の発願によって建立した寺院で、本堂に当たる観音堂は元禄10年(1697)、元禄時代の建築技術の粋を結集して建てられた、都内に現存する最大の木造建築で、23区内に現存する本山級の本堂としても唯一のものだ。内部には直径50センチを超える欅の柱が52本並び、随所に造営時の華麗な装飾が偲ばれる。

加賀藩前田家上屋敷御守殿門(東大赤門)

第6位は、加賀藩前田家上屋敷御守殿門、すなわち東大赤門。本郷の東京大学の敷地は、徳川家に次ぐ石高を誇った加賀藩前田家の上屋敷の跡地とほぼ重なり、周囲には藩邸時代の石垣が随所に残る。赤門もこの上屋敷の門で、文政10年(1827)に時の将軍、11代家斉の21女、溶姫が前田家に輿入れする際に建てられた。当時、官位が三位以上の大名が将軍家から嫁をめとる場合、朱塗りの門を建てる習わしがあったのだ。

薬医門の左右に唐破風の番所が付属し、その左右に海鼠壁の袖壁が控え、格式の高さを示している。明治36年(1903)、医科大を建てるために外側に15メートルほど移されたのが残念だが、創建された位置に残る大名屋敷の遺構がほとんどないなか、ほぼ往時の場所に残るという点でも貴重である。

第5位は、根津権現(根津神社)。5代将軍綱吉が、6代将軍家宣の生誕地である甲府藩徳川家下屋敷跡地に天下普請で造営した神社で、権現造の完成形とされる絢爛たる社殿が現存する。華麗な彫刻が適度に加えられ、朱を中心に黒、青、金地を交えた色彩が施されて美しい。社殿一式のほか楼門、唐門、三棟の透かし塀、西門の7棟が国の重要文化財に指定されている。昭和20年1月、米軍の焼夷弾が本殿に命中し、一部が燃えてしまったが、修復可能な程度に焼け残ったのが不幸中の幸いだった。

寛永寺清水観音堂

将軍の御膝元ならではの4つの建築

第4位は、寛永寺清水観音堂。延暦年間創建の比叡山延暦寺にならって寛永年間(1624-1644)に創建された上野の寛永寺は、家康、秀忠、家光に仕えた天海僧正を開山とし、徳川家が建立した。ちなみに明智光秀が生き残って天海になったという俗説もある。家光の葬儀が行われてから徳川家の菩提寺とされた。

しかし、徳川家を敵に据えた新政府軍は、徳川の寺であるのが気に入らなかったのだろう。慶応4年(1868)、彰義隊がここに立てこもると、新政府軍は完膚なきまでに寛永寺を攻撃し、大半の堂宇が焼失。その後、30万坪を超える境内の大半は没収された。そんななか焼け残ったのが、寛永8年(1631)、まだ天海が健在のときに京都の清水寺を模して建てられた清水観音堂なのである。創建時の位置からは100メートル程度、移築されているが、この大寺の栄華と苦難のすべてを見てきた生き証人で、国の重要文化財に指定されている。

第3位は、増上寺三解脱門。家康が徳川家の菩提寺に選んだ増上寺は、寛永寺同様に栄華を極めただけに、明治以降は同様に、境内の大半を失ったのをはじめ過酷な扱いを受けた。また、廃仏毀釈や空襲で残った遺構も多くが焼失。それにもかかわらず、この高さ21メートルの大きな山門は、元和8年(1622)の建築をいまに留めている。やはり国の重要文化財である。

第2位は、江戸城富士見櫓。江戸城本丸の南方隅に建つ、現存する唯一の三重櫓で、明暦の大火で消失後、万治2年(1659)に再建されたという。築城の名手、加藤清正が築いた高さ約15メートルの石垣上に建ち、櫓単体の高さが15.5メートル。これは現存する12の天守とくらべても、丸亀城や備中松山城より高く、弘前城や彦根城、宇和島城に匹敵する大きさだ。また、各面に破風や窓が設えられ、どの面を見ても正面のようなので「八方正面の櫓」の異名がある。

江戸城には天守が3回建てられたが、明暦3年(1657)の大火で消失後、再建されなかった。代わりに富士見櫓が、8代将軍吉宗の時代から「代用天守」とされた。つまり、江戸城の櫓のなかで最も格上だというお墨付きをもらっていた櫓が、いまも残っているのだ。皇居東御苑に入園すれば、本丸側から裏面を眺められるが、できれば皇居一般参観に申し込み、高石垣の上に建つ雄姿を眺めたい。

第1位は、上野東照宮。寛永4年(1827)、寛永寺の境内に創建され、祖父家康を深く尊敬した3代将軍家光が慶安4年(1651)に、日光まで参拝に行けない江戸の住人のために造営替えして豪華な社殿を建立。それが残っている。金地の極彩色で飾られた唐門の奥に建つ、拝殿、幣殿、本殿が並ぶ権現造の社殿は、建物全体が黄金色に輝き、軒下は極彩色で飾られている。まだ豊かだった幕府の財政を背景に建てられた、桃山文化につながる絢爛たる建築だ。

社殿のほか唐門、鮮やか色彩を施した200種類以上の動植物が彫り込まれた透かし塀、有力大名が寄進した48基の銅燈籠、老中や大老を歴任した酒井忠世が奉納した石の鳥居などが、国の重要文化財に指定されている。また参道には大名たちが寄進した200基の石灯籠が並び、元来は東照宮の所有だった寛永寺五重塔も建つ。つまり日本各地で失われた神仏習合時代の光景が、ここにはある。社殿だけでもナンバーワンだが、こうしたすべてによって江戸の空間が色濃く伝わる上野東照宮を、ダントツのナンバーワンに推したい。

『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)

PROFILE

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家。早稲田大学で日本史を学ぶ(日本史専攻)。小学校高学年から歴史オタクで、中学に入ってからは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、本連載に大幅に加筆した「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。