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晩年の日々をたどる──ジョン・レノンへのトリビュート

1980年12月に起きたビートルズの1人の突然の悲劇的な死は世界中を愕然とさせ、40年後のいまも当時のショックは記憶にあたらしい。われわれはジョン・レノンを忘れてなどいない。彼のソロ活動のディスコグラフィをあらためて紹介するとともに、生前最後の何年間かの、妻にしてコラボレイターでもあったヨーコ・オノとの私生活がどんなだったかもふりかえってみよう。有名大物アーティストを祝福することをなにやら強制されているかのように感じてしまったりする昨今、レノンの死から学ぶことができるなにかがあるのではないだろうか。
晩年の日々をたどる──ジョン・レノンへのトリビュート
© Bob Gruen / www.bobgruen.com

レノンの死後、彼へのリスペクトを表明するべくニューヨークのセントラル・パークに集まったファンたち。1980年12月。

ジョン・レノンという男

1980年12月8日にマンハッタンの自宅アパートメント玄関付近で狂信的なファンによって射殺された時点で、音楽業界内でのジョン・レノンのポジションはかなり地に落ちていた。ヨーコ・オノとの共作で死の数週間前にリリースされたばかりの復帰作『ダブル・ファンタジー』が、「ローリング・ストーン」誌や「ザ・タイムズ」紙をはじめとしてあちこちから酷評されまくっていたのだ。

しかし、死の直後からレノンは殉教者として見られるようになり、『ダブル・ファンタジー』はヒットした。販売枚数は米国内だけで300万。12カ国超でNo.1になり、1981年のグラミーで最優秀アルバム賞を獲得した。年を経るうちに当初の酷評は勢いを失い、同アルバムはいまやレノンのベスト作品のひとつに数えられている。だが出た当時、〝(ジャスト・ライク)スターティング・オーバー〟や〝ウーマン〟や〝ウォッチング・ザ・ホエールズ〟そして〝ビューティフル・ボーイ(ダーリン・ボーイ)〟といった曲は、同時代の最新のエレクトロニックな音楽カルチャーに一家言もつ者からは嘲りの対象にされた。パンクの流行が終わってヒップ・ホップが始まる頃の話だ。

レノン死亡のニュースを最初に聞いたあの早朝のことはよく覚えている。部屋の壁紙の模様まで。そのとき私はノース・ロンドンはスタムフォード・ヒルにある学生アパートの自室にいた。セントラル・ヒーティングがなかったのでいつも寒くて、起きたらまず電気ストーブのスイッチを入れていた。ジョン・レノンの大ファンではなかったが(「ずっと好きなのはポール・マッカートニー」などと当時おおっぴらにはいえなかった)、ビートルズのメンバーが死んだのはおおいにショックだった。

アパート仲間どもはそうでもなかった。私がつきあっていたのは元パンクのガチ勢で、〝イマジン〟やプラスティック・オノ・バンドよりもザ・クランプスやスージー・アンド・ザ・バンシーズが好きな手合いだった。学校で話した他のやつらも、レノン殺害のニュースにさして関心がなかった。その晩の追悼番組でゲストの1人がレノンのことを「最初のパンク」といったので、いっしょにテレビを見ていたやつがビールを飲んでいてゲホゲホッとなった。「じゃあイギー・ポップはなんなんだ?!」と誰かがいった。

アパート仲間はレノンを「もう上がっちゃった人」と見ていた。ハンブルク時代の彼の暴れっぷりを見たこともないくせに。1960年代に冷笑系ロック歌詞の書きかたを発明したのが彼だということも知らないくせに。誰ともなあなあの関係になろうとしなかったあのカッコよさを、ホットな減らず口のすごさを知らないくせに(レノンはかつて、ELOがヒット曲を出せなくなったことについて「新たにコピーできるビートルズのレコードがもうなくなっちゃったんだよ」といったことがある)。

もっというと、1964年に出た『ア・ハードデイズ・ナイト』のB面は、ほぼほぼ、彼の仕事だった。1960年代のレノンの作曲者としてのピークはあそこにあったといっていいし、唯一あのときだけは、作曲者としてマッカートニーに匹敵するレベルに達していた。質とバラエティの両面で。あのB面には、いろんな方向へ発展していける芽があった。ドラッグやなげやりやヒネクレでダメになっていなかったらと思うと惜しまれる。

ジョンとショーン。ニューヨークの自宅アパートメントにて。篠山紀信撮影。1980年9月。

1980年の時点で、ジョン・レノンはほとんどただの流浪の人と化していた。1971年にニューヨークへ引っ越して転機が訪れた。アンダーグラウンド・カルチャーの世界へ出入りすることができるようになったのが嬉しくて、最初の2、3年、彼は自らを活動家のような存在だと考えていた。急進的な人たちと交流し、政治的な声明を出し、ここに住んでよかったと広言し(バス・オリバーのビスケットを買えないのが玉に瑕だったという)、リヴァプールやロンドンやイギリスからはきっぱり距離を保っているようだった。そして、これは他のビートルたちも同じだったが、批評家方面からあれこれいわれるのに対しては高見の見物を決め込んだ。レコードを出せばみんなは「素晴らしい」といってくれるだろうし、批評家になにをいわれるかなんて気にしない。くやしかったらアンタもジョン・レノンになってみな、というわけだ。

NME(「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」紙)に追悼記事を書いた同紙編集長ニール・スペンサーにいわせると、こんな具合だった。「レノンだってわれわれと同じで、自己中だったりイヤなやつだったりするときもある。でも彼は自分のことをミジメに思ったりする人では決してなかった。少なくとも人生の後半は、分かち合いの人だった。でも、いまはもういない。身を切られる思いだ。あの人のなかの善なる部分や威厳や開かれた心や楽観主義がわかっていた者としては、この先、彼なしでやっていくのは確実にツラいことになる」。

ジョン・レノンの〝サウンド〟なるものがあったとしたら、その最初のものは1970年にヒットした〝インスタント・カーマ〟で聴ける。ドラムスとエコーとおぼつかなげなヴォーカルが印象的な曲だ。「初めて聴いたときのことははっきり覚えている」とは、トーキング・ヘッズやトム・トム・クラブのドラマー、クリス・フランツ。「思わずカー・ラジオのボリュームを上げて、『コイツはイカしてる』って。シャッフル・ビートのドラムスの音にゲート・リヴァーブがたっぷりかかっていて、あと、ヴォーカルのエコー。あの音作りにはすっかりやられた」。レノンの声が聴こえてきたときは驚いたという。

レノンのソロ活動が本格的に始まったのはアルバムでいうと1970年12月の『ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド』から。あれを聴いて私は、これからの10年は俺のものだと宣言されたような気がした。ある批評家の言葉を引用すると、「まったくもって自己満足のきわみだし唯我独尊だが、実にユニバーサルな、誰が聴いてもいいアルバムでもある」。〝ワーキング・クラス・ヒーロー〟あり〝マザー〟あり〝アイソレーション〟あり〝ラヴ〟ありで、駄曲がほとんどない。

その9カ月後に『イマジン』。これはソロ活動のなかで商業的にもっとも成功したアルバムだし、人々の記憶にもっとも強く残っている。収録曲は〝ジェラス・ガイ〟〝ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?〟〝クリップルド・インサイド〟、タイトルトラックの〝イマジン〟。〝ギミ・サム・トゥルース〟にいたっては、おそらく彼のソロ活動期中最高峰のレコーディングといっていい。

レノンは典型的な労働者階級の人ではなかったが(当時はロワー・ミドル・クラスの人だと見られていた)、〝ワーキング・クラス・ヒーロー〟はすぐに彼の代表曲の1つになった。「あんな言葉(歌詞中の〝fucking〟)のせいで反感を買ったりイヤな顔をされたけど……」とヨーコ。「でも彼は私にいったの。『常にクリーンで適切な言葉使いしかしないようなのはワーキング・クラスじゃないよね。だからアタリマエにfワードを発するようになれたらなって思ってる』って。自分はそういうやつなんだってわかってほしかったの。そんなふうにリアルだったから、ファンは彼と一体になれたんだと思う。ジョンという人間は、自分の人生を歌ってたの。同じ業界の人たちにはそこが通じてなかったけれど」。

〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟

『イマジン』の大成功ですっかり怖いものなしになったレノンは、1972年夏に『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』をリリースした。2枚組のそれは、性差別や人種差別や植民地主義や冤罪での投獄に反対を唱えるアジ演説みたいなアルバムだった。その1年後の『マインド・ゲイムズ』で路線としてはオーソドックス方向へ戻ったものの、肝心のデキはレノンの作曲能力の衰えを感じさせるようなレベルで、タイトル曲以外にあまりロクなものはなかった。

1974年10月の『ウォールズ・アンド・ブリッジズ』で少し持ち直す。収録曲の1つ〝#9 ドリーム〟は彼の全キャリアを通じてのベスト・シングルとなった(批評家いわく「通好み」)。同曲について、当時レノンとつきあっていたメイ・パンはこういっている。「彼のお気に入りの曲ね。文字どおり、夢に出てきたんですって。で起きて、慌てて歌詞とメロディーを書き留めて。意味はわからなかったけどすごくいい曲だって思ったそうよ」。『ウォールズ・アンド・ブリッジズ』の4カ月後に出した『ロックン・ロール』は全曲カヴァーのアルバムで、名曲〝スタンド・バイ・ミー〟が収録されている。

ニューヨークにて、ボブ・グルーエン撮影。1974年8月。

1975年の彼の35歳の誕生日にショーンが生まれると音楽の仕事を休止。5年間のブランクを経て1980年に出した『ダブル・ファンタジー』は「子供をもって親になると芸術家としてはダメになる」のいい見本のようでもあったが、実はレノンのベスト曲群がこの時期に作られている。アルバムとしては1984年、つまり本人の死後『ミルク アンド ハニー』として出た。収録曲の1つ〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟は、音源的には1980年のバハマ旅行中にデモ目的で録音されたのが最初だった。

「ジョンは、あの曲は完成版ではスタンダード・ナンバーにするつもりだったの」とヨーコ・オノ。「ホーンやストリングスも入って、教会の結婚式でかかるような」。〝ヘイ・ジュード〟のような、キャンプ・ファイアを囲んでみんなで歌う曲、というイメージもあった。ヨーコによると「アレンジをどうするか相談しながら、バージョン違いのデモをカセットに何本か」残したという。「そのときのカセットはとても貴重なものだから厳重に保管しておいたけど、全部どこかへいってしまって。残っているのは、レコードの最後に入っているあれだけ。運命だったのね。ジョンの最後のレコーディングだったから。2人して、家のベッドルームで録音したの。ピアノとリズムボックスに合わせて歌って」。『ミルク アンド ハニー』の曲は粗削りだが、ジョン・レノンに詳しいポール・ドゥ・ノイヤーにいわせると「彼の希望や恐怖を率直に綴ったもの」で、〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟もそう。無理しているようなヴォーカルやおぼつかなげなピアノの感じは、ブートレグ音源で聴ける〝フリー・アズ・ア・バード〟に似ていなくもない。

『アンソロジー』シリーズの3枚目のシングル曲として出したいとの提案がビートルズの残り3人から拒否されたため、ヨーコは1998年、〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟のオーバーホールをジョージ・マーティンに依頼した。CD4枚組『ジョン・レノン・アンソロジー』への収録を見込んでのことで、彼はその依頼を快諾した。マーティンはこの曲をおおいに気に入り、レノンの死後に聴いた彼のどの曲よりもいいと思ったが、重々しさがもっとあったほうがいいと判断し、アレンジに腕を振るった。控えめで事務的ですらあったアレンジはしかし仕事としては完璧だった。ストリングスやフルートが加わったことで泣きそうなレノンの声のもつ効果がこれ以上ないほど見事に際立ち、もはや解説の必要などない〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟決定版となった。ここまでに、最初のデモが録音されてから18年。

〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟はレノン曲群のうちワルっぽくないほうのグループを代表するものの1つで、その気になれば、彼はマッカートニーよりもよほどディープにセンチメンタル路線を掘り下げることができたのだということがわかるし、どっぷりひたりたいときにはオススメ。思うに、ビートルズが彼らの『アンソロジー』にこれを入れなかったのは失敗だった。ラストにもってくるのにぴったりの曲だし、〝フリー・アズ・ア・バード〟と違ってELOっぽく聴こえてしまったりはしないだろうから。試しにやってもらうとわかるけれど、ビートルズ『ホワイト・アルバム』の最終曲〝グッド・ナイト〟のあとに〝グロウ・オールド・ウィズミー〟を続けると実にしっくりくる(〝グッド・ナイト〟のかわりにでも可)。

ジョンとヨーコとショーンの家

25年前、ヨーコ・オノの招きを受けてダコタ・ハウス7階の彼女の自宅(1973年にレノンと2人で購入した9室の巨大アパートメント)を訪れたことがある。まず驚いたことには、ジョン・レノンが弾いていたあの白いベイビー・グランドが目に入った。白い鍵盤や上に置かれた額入りの写真に午後の日差しがあたり、入る前に靴を脱いでいたこともあって、なにやら聖なる体験をしているような気分になった。フラット内にはビートルズゆかりの品々があちこちに……というよりは、そこはジョン・レノンが居抜きになったみたいな世界だった。ジョン・レノンが座ったソファ。口をつけたマグ。窓越しにゆったり眺めたセントラル・パーク。まるで自分がジョン・レノン本人になったようで、気が変になりそうだった。

キッチンへ案内してくれて「ここでジョンがパンを焼いてたの」とオノ。スパイス入れ。まな板。その他、なんてことない生活用品。「朝起きて、ショーンが床の上で遊んでいる横で彼の朝食を用意して。私が下で仕事してる間にジョンがパンを焼いて。私がキッチンのテーブルで仕事したこともあったわ。家族いっしょにいたくて。ここは私たちの家。ショーンの家。だから一生住むの」。

1対1で会う彼女は、おっかないビジネス・ウーマンではなかった。細切れのセンテンスでさえずるように話し、ほとんど鳥みたいだった。全身黒ずくめの衣装で、威張っているというよりは不思議ちゃん。もちろん、ジョン・レノンの遺産管理人として恐るべきボスと化しもしたわけだけれど。同じビルの1階にあるオフィスの彼女の個室の机の上に、ジョンが署名した小切手が額に入れて飾ってあった。受取人はヨーコで、金額欄は記入なし。このブランク・チェック、まさしく彼ら2人の関係を象徴する一品だった。

ダコタを辞すときになって「私のこと一生許さないって人もいるの」とヨーコ。「プロフェッショナル未亡人とかドラゴン・レイディとか、ほかにもいろいろいわれて。でもメゲてるわけにいかないから。どう思われようと、こっちはこっちでなんとかやってくしかないの」。

ニューヨーク、マディソン・スクウェア・ガーデンでのレノンとヨーコ・オノ。1972年8月30日。この日は2回のステージをこなし、最初のほうでのパフォーマンスはアルバム『ライブ・イン・ニュー・ヨーク・シティ』(1986年)の音源となった。

『ダブル・ファンタジー』の世界はレノン亡きあともけっこう長く続いていた、というべきだろう。彼がヨーコとの関係の脆さを歌った〝アイム・ルージング・ユー〟は名曲中の名曲だが、皮肉なことにというべきか、あのアルバムのなかではどうにも場違いな感じがする。

1982年、BBCのラジオ番組『無人島へもっていくレコード』に出演した際、ポール・マッカートニーはお気に入り曲の1つとして〝ビューティフル・ボーイ〟を紹介した。レノンによる息子のための子守歌であるその歌詞に曰く「違うことをアレコレ考えてる最中に思わぬことがいろいろ起きてしまうのが人生ってもの」。

至言だとは思いませんか。

ジョン・レノンが残した名曲たち

Double Fantasy
(1980)

復帰第1作。正直なところ生焼けのソロ・アルバムで出た当初は総スカン状態だったが、後に誰もが渋々好きだと認めるように。レノンの死後40年経ってから聴くと違った印象。違って聴こえないほうが驚きだが。

A Hard Day’s Night
(1964)

ザ・ビートルズのベスト・アルバムといえば長いこと『サージェント・ペパーズ』で、次に『ホワイト・アルバム』。『アビー・ロード』だったときも一瞬あったが、でもいまはこれでは? レノン愛好家にとっては、たぶん。

John Lennon/Plastic Ono Band
(1970)

このドラムス。エコー。ヴォーカル。冗談抜き、ビートルズからの見事な決別。70年代サウンドはここから始まったといってもいい1枚で独自のジャンルを築き、現在まで50年間にわたりコピーされ続けている。

Credit: dcphoto / Alamy Stock Photo

Imagine(1971)

レノンのアルバムで最もよく売れた1枚。批評家からの評価もこれが最高。時代を超えた名作。タイトル曲を芸人どもが歌ってるのを聴かされるのはもうゴメンだが、オリジナルはいま聴いてもちょっと奇跡的なくらいいい。

Sometime In NewYork City(1972)

アジ演説とナンセンス満載で、やたら威勢はいいがデキはゴミ。いまだったら発売不可間違いなし。特に不適切なのは、なにをトチ狂ったかレノンがfワードを多用していること。

Mind Games(1973)

タイトル曲のデキはヒドくないが、オススメする理由があるとしたら、カヴァー・アートが名作であることか。ある批評家曰く「『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の不快さをもう一度、という以外には何ら明確な目的もなく作られた1枚」。

Walls And Bridges(1974)

これぞ代表作で名作、とまではいいがたいが米国No.1ヒット〝ホワットエヴァー・ゲッツ・ユー・スルー・ザ・ナイト〟とレノンの(そしてビートルズが出したなかでも)ベスト・シングル〝#9 ドリーム〟が入っている。

Rock’n Roll(1975)

中身よりジャケットのほうがステキな1枚だが、レノンのヴォーカルのいちばん魅力的なところが聴ける〝スタンド・バイ・ミー〟がここに。この歌はオリジナルよりレノンのカヴァーのほうがいい、との説もあったりする。

Milk And Honey(1984)

アーティストの死後に出たアルバムのデキがいいことはめったにないが、これは名作。なかでも特にいいのは〝ノーバディ・トールド・ミー〟と〝グロウ・オールド・ウィズ・ミー〟。後者はとにかく泣ける。泣いてよし。

John Lennon Anthology(1998)

どれか1つだけ買うならこれでキマリ。熱烈ファンの人も初心者の人もどうぞ。〝ギヴ・ピース・ア・チャンス〟も〝ワーキング・クラス・ヒーロー〟も〝アイム・ルージング・ユー〟も、そして〝ウーマン〟も入っているし。

Words ディラン・ジョーンズ Dylan Jones
Photo ボブ・グルーエン Bob Gruen
Translation 森 慶太 Keita Mori

Getty Images (Crowed), Courtesy of Yoko Ono Lennon, (albums)Kishin Shinoyama (John and Sean), Courtesy of Yoko Ono Lennon (albums),Bob Gruen,Getty Images; Yoko Ono Lennon (John and Yoko), Courtesy of Yoko Ono Lennon (albums)