幕末に設計された最新の城。五稜郭と松前城がともに役に立たなかった理由──世界とつながっている日本の城 第6回

戊辰戦争当時、最新式築城術を駆使したはずのふたつの城はなぜかくも脆かったのか。
幕末に設計された最新の城。五稜郭と松前城がともに役に立たなかった理由──世界とつながっている日本の城 第6回
Copyright: Lo Chun Kit

築かれてすぐに戦闘を経験した2つの城

近世の城は権力のシンボルでもあったが、城であるかぎり戦闘が起きたときのことを想定していた。複雑な縄張りも、高く積まれた石垣や広い堀も、元来は敵の攻撃を退けるためのものだ。もっとも、慶長20年(1615)の大坂夏の陣以降は200数十年にわたって太平の世が続いたので、一度も戦闘を経験しないまま役割を終え、明治6年(1873)の「廃城令」によって消えていった城は多い。

一方、幕末にあらたに築かれ、短い間に戦闘を経験した城もある。蝦夷地(現在の北海道)に築かれた松前城と五稜郭がその代表だ。これら2つの城の成り立ちと、繰り広げられた戦闘の模様を読み解くと、鎖国による太平の世の間に、日本が失ったものも見えてくる。

五稜郭タワーから見下ろした五稜郭(手前の三角が半月堡)。

最後の日本式築城となった松前城

函館から海沿いを東に100キロほど行った松前町にある松前城は、城がある台地の名にちなんで福山城ともよばれる。昭和24年(1949)まで三重の天守が現存していたのだが、町役場の失火が原因で焼失。いま建つ天守は、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで外観復元された。しかし、天守東側の本丸御門は現存する。また、搦手二の門や天神坂門が木造復元されるなど城址の整備も進み、天守の木造復元計画もある。

この地に幕末まで城がなかったわけではない。慶長5年(1600)、松前慶広が築城工事を始め、同11年までに、地元で福山城または松前城とよばれた事実上の城が完成している。ただ、当時の松前氏は幕府から城主大名と認められておらず、城を築けない立場だったので、正式には福山館とよばれていた。

それから200有余年を経た嘉永2年(1849)、21歳で17代目の藩主になったばかりの松前祟広は、幕府から突然、城主大名への格上げを宣告され、築城を命じられた。近海に異国船が出没しており防御の要になる場所なので、というのが理由だった。

事実、このころ蝦夷地の沿岸にはアメリカやロシアなどの外国船が頻繁に現れていた。アメリカの捕鯨船は北大西洋のクジラ資源が枯渇したため、新たな漁場の北太平洋に進出。凍らない港を求めるロシアも太平洋を南下しようとしていた。幕府はこれらの外国船を打ち払って海岸を護るために、松前藩に築城を命じたのだ。

松前祟広はさっそく築城に取りかかった。縄張りは当時の三大兵学者の1人、市川一学に任された。息子の十郎とともに松前にやってきた77歳の一学は、松前藩の領地をくまなく周った結果、松前の地勢はすぐ後ろが山、前が海で、防御上問題があるとして、函館後方の庄司山付近への築城を勧めている。しかし、最終的には福山館の地に、元来の施設を活かしながら築城することに決まった。

復元された箱館奉行所。

費用の捻出は困難で、家臣の俸禄の1割を献上させ、町屋にも寄付を求めるなどして、安政元年(1854)9月に城はようやく完成。コストの問題もあって、本丸御殿や太鼓櫓などは福山館のものが再利用されながらも、江戸兵学の最高水準が適用された。その結果、横矢(側面からの攻撃)を自在にかけられるように城壁が複雑に曲げられるなど、凝ったつくりになった。

とはいえ、本丸には天守が新築されるなど、織田信長以来の近世城郭のスタイルを踏襲しており、ほぼ最後の日本式築城だった。一方、新設された三の丸には7座の砲台が設けられた。外国船の打ち払いが目的だから当然だが、当時としては最新式と理解されていた西洋式の築城術も採用されたのだ。

稜堡のひとつを地上から見る。

フランス軍艦の書類をもとに設計された五稜郭

一方、松前城の完成間際の安政元年6月、幕府は箱館(いまの函館)と周辺5里(約20キロ)四方を松前藩から没収し、直轄地とした。この年の3月、日米和親条約が締結されて1年後の箱館開港が決まり、幕府は海防や諸外国との対応を松前藩だけで行うのは無理だと判断していた。

そして箱館奉行が設置され、勘定吟味役でペリーとの開国交渉に参加し、海防掛や大砲鋳立掛なども経験していた竹内保徳が就任。続いて、やはり海防掛や蝦夷地掛の経験がある堀利熙や村垣範正も同役に任命され、安政3年(1856)以降、3人態勢になった。彼らの後任もふくめて箱館奉行には外国通の開明派が充てられた。

箱館奉行にとっての懸案事項は幕府領地の防衛強化で、そのために沿岸に台場を築くのに加え、もうひとつ方針を定めた。安政元年に幕府に上申したのは以下の内容だった。箱館奉行所は箱館山山麓の高台にあって、艦船の標的になりやすいので、港湾から24~25町(約3キロ)離れた大砲の射程距離外で、外洋の動性も把握できる場所に移し、四方に土塁をめぐらせたい。

箱館奉行所の大広間。

では、どんな形状の土塁で奉行所を囲むのか。田原良信著『五稜郭 幕府対外政策の北の拠点』によれば、安政2年(1855)8月に箱館に入港したフランス軍艦コンスタンティーン号の記録には、パリ郊外には土塁に守られた砲台が配備されており、新たに台場を築くならそれに関する書類を写しとってもよい、と提案した旨が書かれているという。現に後日、箱館奉行に仏書が贈呈されたそうだ。

また、箱館奉行は安政3年、西洋の学問や技術を研究ならびに教授する教育機関「箱館諸術調所」を開設し、緒方洪庵や佐久間象山に学んだ蘭学者、武田斐三郎が教授役に任命されていた。この人物がコンスタンティーン号副艦長から直々の指導を受け、大砲の設計図や西洋式の土塁の絵図面を写しとった。そして彼の設計で、「稜保」とよばれる5つの尖った張り出しがあり、星形の水堀で囲まれた土塁が、奉行所を囲むことになった。

星形の要塞は15世紀末にイタリア半島で誕生したもので、張り出した「稜堡」は銃や火砲などで攻撃する際、死角を生まないための構造だ。つまり尖った部分からは見渡せる範囲が広く、ひとつの稜堡が攻撃されても、ほかの稜堡から寄せ手に向けて援護射撃できる。

安政4年(1857)に工事が始まり、冬場の凍結による堀の側面崩壊といった困難を克服しながら、7年後の元治元年(1864)4月に完成し、6月に箱館奉行所はここに移った。こうして幕府による蝦夷地統治ならびに防衛と外交の拠点は、俗に五稜郭とよばれた、ヨーロッパ由来の稜保式要塞の内側に置かれることになったのだ。

半月堡の「刎ね出し」のある石垣。

星形の真ん中に復元された箱館奉行所

五稜郭の特異な形状を俯瞰するためには五稜郭タワーに登るといい。突き出した5つの「稜堡」からは、となりの稜堡も稜堡間のへこんだ部分も広く見渡せ、死角なく攻撃できることが、上から眺めると理解しやすい。

また、タワー側には城郭本体から離れて、三角形の「半月堡」が見える。隣接する稜保の出入り口を援護射撃するための施設で、すべての稜保に設置される予定だったが、工事に困難が伴うなどして計画が縮小され、正面1カ所だけに設けられた。城郭全体を囲む堀は外周が約1.8kmで、幅は30mほどだ。

タワーから下りて半月堡に入ると、石垣の最上段から2段目が外側にせり出しているに気づくだろう。敵の侵入を防ぐための「刎ね出し」である。二の橋を渡ると郭内で、幅27~30m、高さ5~7mの主土塁が堀に沿ってめぐらされている。ここ大手と搦手の土塁は、凍結して崩落するのを防ぐために石垣が積まれ、やはり「刎ね出し」が設けられている。また、出入り口の正面には、外からの視野をさえぎり、近くからの射撃を防ぐための「見隠塁」がある。

内郭の中央には平成22年(2010)、箱館奉行所の建物がほぼ3分の1、約1000平方mにわたって復元され、五稜郭内のランドマークになっている。

五稜郭内の建造物はほとんどが明治7年(1871)、開拓使によって解体されたが、昭和60年(1985)からの発掘調査の成果のほか、古写真や古図面、文献資料などをもとに、奉行所の中心部分が木造で、可能なかぎり往時に忠実に再現された。入母屋屋根の中央に太鼓櫓が建つ印象的な建造物で、屋根瓦の微妙な色合いまで細かく検討されたという。

松前城の台場跡から海を望む。

実戦であえなく落ちた2つの城

さて、最後の日本式城郭と、仏書から学んだ西洋式の城郭。新造された対照的な2城はどちらも冒頭に記したように、間もなく実戦に供せられた。

明治元年(1868)10月26日、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍は箱館を占領し、五稜郭に入城した。この年の4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されると、徳川宗家の所領は幕府時代の1割にすぎない70万石に削られた。職を失った旧幕臣たちによる蝦夷地開拓をめざした脱走軍が箱館に入ると、新政府の箱館府の守備隊はあっけなく敗北し、それを知った清水谷公考以下の官僚は青森に脱出したため、脱走軍は無人となった五稜郭に簡単に入ることができたのだ。

そして10月28日、元新選組副長の土方歳三が指揮する800人の陸軍部隊は松前城攻略に向かった。11月1日には脱走軍の軍艦「蟠龍」が松前湾に現れ、海上から城へ砲撃。天守2階や本丸御門にも命中している。松前藩も城内や周囲の砲台から砲撃し返したが、11月5日、脱走軍は海側と北方の台地側の双方から攻め進んだ。海上からは軍艦「回天」が砲撃して土方らを援護した。

松前城にとっては北側の構造的な欠陥が致命傷になった。北側はゆるやかな台地が城を見下ろす、攻める側に有利な地形で、だから兵学者の市川一学も、この地への築城をためらったのだ。しかも海防を意識しすぎるあまり、弱点である北側には、高台の寺町との間にわずかな土塁と石垣、申しわけ程度の堀が設けられていただけだった。

脱走軍は北側から侵入し、本丸内で激しい戦いを繰り広げたのち、わずか1日で松前城を攻め落とした。敗れた藩兵は寺町や市街の各所に火を放って逃げ去っている。

だが、それから半年も経たない明治2年(1869)4月17日、今度は新政府軍に反撃された松前城は、やはり北側から攻め込まれ、あっけなく奪回されている。

その後、新政府軍は脱走軍を箱館に追い込み、5月11日に総攻撃に入った。12日以降は新政府軍の軍艦が箱館港に深く入り、五稜郭への砲撃を始めた。とりわけ「甲鉄」が繰り出す砲弾に威力があり、奉行所の屋根にそびえる太鼓櫓が標的になって砲弾が命中している。15日に弁天岬台場が降伏すると、翌日には千代ヶ岱台場と五稜郭は完全に包囲され、千代ヶ岱台場における白兵戦を経て榎本らは降伏。翌日、五稜郭は明け渡された。

正門脇の土塁は刎ね出しのある石垣で固められている。

五稜郭は最新式ではなく旧式の城だった

「対照的な2城」と書いたが、実戦ではどちらも役に立ったとはいえない。

松前城は北側の欠陥はもちろん、艦砲射撃の標的になる天守や櫓を好んで建てたことからして、外国船を打ち払うための城という所期の目的にかなう造りではなかった。しかし、日米和親条約締結前の計画であることを考えれば、致し方ないだろう。では、フランスの軍艦の指導のもとに築かれた五稜郭は、時代の先端をいく城だったのだろうか。

イタリアで稜堡式の要塞が誕生した理由は、城攻めの兵器が鉄砲および大砲になったことと切り離せない。それまでヨーロッパの要塞は高層の城塔がいくつも建ち、その間をカーテン・ウォールとよばれる高い城壁で結ぶスタイルが一般的だった。以前はこれで、攻撃に十分に耐えられたのだ。ところが大砲で攻撃されると、当時の大砲は石を飛ばすだけであったにせよ、高い城壁は破壊され、敵に突破口を簡単につくらせてしまう。守る側も、高い城壁の上からでは大砲も鉄砲も安定して撃てない。

そこで砲弾の衝撃を緩和できるように、城壁は低く構えられるようになった。そうすれば守る際も、低い位置からの低弾道射が可能になり、敵に命中する確率も高まる。加えて、小銃で敵を迎え撃つ際に死角を減らし、より有効に撃てるように、稜堡という形態が生み出されたのだ。

しかし、それは15世紀から16世紀の話。日本が鎖国政策をとる以前、ヨーロッパとの交流が盛んだったころに伝えられていても不思議ではなかった。事実、稜堡式の要塞は16世紀から17世紀にかけて規模が拡大し、都市全体を囲むものも登場する。また星形にとどまらず、さらに多角形のものも現れる。

そうした変化は火砲類の進化に対応したものだったが、大砲の破壊力や射程距離が増すにつれ、星形の稜堡式要塞自体が役に立たなくなっていった。現に、五稜郭は海岸から3km離れていたにもかかわらず、新政府軍の軍艦、甲鉄に搭載されていた射程3.6kmのアームストロング砲で正確に狙われた。

では、誕生して300年以上も経ち、ヨーロッパではすでに旧式だった要塞が、なぜ日本に受け入れられたのだろうか。当時、フランスやオランダはアジア圏など自国の植民地政策にかかわる地域に、いくつもの稜堡式要塞を築かせていた。コンスタンティーン号の副艦長らもふくめ、彼らから見て未開の地域には、旧式の要塞を築かせておけばよい、という意識があったのかもしれない。

五稜郭を設計した武田斐三郎は、蘭書などを通じて西洋兵学に精通していたから、稜堡式の要塞についても一定の知識をもっていたはずだ。軍備の西洋化が急速に進められるなか、要塞も西洋のスタイルの導入が急務だと考えたことは想像にかたくない。だが、200年以上にもわたって事実上、西洋との交流を断ってきた日本にいては、西洋兵学のなかで、なにが旧式でなにが新しいのか、判断するのは困難だったことだろう。

PROFILE

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家。早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。