メロンダウト

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マキャベリストに利用される池江璃花子さん

池江璃花子さん周りの話を見ているとかなりモヤモヤしてしまう。

「人殺しの顔をしろ」とかは黄金頭さんの物語が背景にあったからこその言葉で、単独で使っていい言葉ではない。ある種のルサンチマンが背景に認められるからこそ抑圧的な社会にたいしての言葉として使えるのであって、単独で使うと単なる暴言として取られかねない。「君の膵臓を食べたい」と言っても知らない人には単なるカニバリズムでしかないわけで。保育園落ちた日本死ねも同じで、文脈としては機能しても単独で使った場合にその意味を失う言葉は数多くある。池江さんがはてな民であれば「人殺しの顔をしろ」の意味が通じるかもしれないけど、まずもってそんなことはないですし。

五輪周りの話題を見ているとそういう個人の物語と社会的な議論がゴチャまぜになった話がすごく多い。池江さん個人は個人でしかない。ましてや彼女は20歳の若者であり、社会的な議論の神輿に祭り上げられるのは単に酷なのだ。どう転んでも彼女に政治性がつきまとうことになる。五輪に反対すれば右から攻撃され、賛成すれば左から攻撃されるのはどう考えても彼女の本意ではないであろう。こういう状況なのでアスリートに発言を求める人々が出てくるのはわかるのだけど、それを属人的なレベルにまで落としこんで個人に発言を求めるのは筋違いではないか。やるのであれば出場選手に無記名でアンケートを取ってIOCや政府への意見書として提出するなど、方法論として考えるべきだろう。白血病を克服したような大きな物語のヒロインとして祭り上げられた象徴として池江さんを利用するマキャベリストにたいしては断固として抗議したい。右にたいしても左にたいしてもである。それは個人の裁量を明らかに超えているのだから。

思い返せば我が国の政治は常にこうしたマキャベリズムによって動かされてきた。小池百合子氏がパチンコ屋をスケープゴートにしてコロナ対策を演出したり、リベラルが安倍晋三を仇敵と見なして「アベ死ね」という旗のもとに動員をかけたりと、対象の尊厳を無視してそれを利用するマキャベリズムは政治的な悪癖と見なすべき愚劣な行為である。

池江さんという象徴を利用して五輪反対の急先鋒に祭り上げようとすることはまさに天皇を政治利用するかのごとき行為であり、許されていいことではない。それは彼女が無謬かどうかといった議論によって回収されるべき話ではないし、その意味で池江さんにたいして「人殺しの顔をしろ」と言うことは論外であろう。そんな文脈の話ではそもそもないのだから。

今回の騒動を見ていて思うのは、結局無党派層にアクセスしようとするためにマキャベリズムを使うことが悪習なのであろうなと。誰が影響力を持っているかで広告を出稿する広告代理店のように、政治勢力インフルエンサーにアクセスして広告を打つ代理店になってしまっている。どこにつっこんでいけば無党派層にリーチできるかという視点で広告代理店と同じことが政治でも行われている。

しかしながら代理店がいくら広告を打ってもただ物が売れて利益があがったお終いであることが忘れられている。発注した会社は広告代理店に発注したことで売上があがれば取引先としての信用もできるけれど、商品を手にしたお客さんはどこの広告代理店が受注しているのかなんてどうでもいいわけで。それは政党政治政治勢力でも同じでインスタントな戦略を組み、インスタントな動員をかけ、インスタントな支持を集めても政党としての支持ではないので支持層にならない。代理店が取引先との信用だけを得るように、政治におけるマキャベリズムも既存の支持勢力とのつながりを強固なものにするだけだと言える。

マキャベリズムで得られる支持は一時的なものに過ぎないことはここ10年あまりで十分すぎるほど明らかになっただろう。ハッシュタグを打ったり池江さんに凸ったりして無党派層にアクセスしようとしたところでニュースとして消費されるだけとなる。マキャベリズム的行為及び暴言をトーンポリシングという自己防衛で虚飾したところで無党派層はそれに気づかないほど馬鹿ではないのだ。

結局、池江さんに凸るようなやりかたは誰の得にもならない。むしろそのような行為は池江さんをスケープゴートにしている間に時間を稼げるという意味で自民党IOCに利することになるのは自明ではないだろうか。

 

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