1982年の初秋。料理人の藤本健二が北朝鮮で暮らし始めて2ヶ月経った。地球上でもっとも謎に包まれた〈隠者王国〉北朝鮮で彼が過ごす日々は、毎日同じだった。彼は日朝商工会議所を通して〈アンサンワン〉という平壌のカラオケレストランに雇われたのだが、その店の工事がなかなか進まなかったのだ。10月のある日、店の支配人から連絡があった。支配人はパニックの様子で、20人分の寿司を用意するのに必要なものを今すぐに揃えてほしい、と彼に頼んだ。そしてメルセデス・ベンツのセダン3台が店の前に止まり、藤本は車に乗り込んだ。それから2時間、彼は足を踏み入れることのできない北朝鮮の田舎を眺めていた。そして車は、海辺の高級な館に到着した。時間は午前2時。彼はその建物で行われているパーティーに参加し、招待客に寿司を振る舞うよう申しつけられた。パーティーはつつがなく執り行われた。その夜のことについて彼が覚えているのは、この魚は何か、と尋ねてきた男性のことだった。それはトロだった。お気に召したのか、その男はおかわりを所望した。
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2日後平壌に戻った藤本は、料理店の主人の女性が開いている『朝鮮新報』を目にして硬直した。トロのおかわりを求めてきたあの男性の写真が、一面を大きく飾っていたのだ。藤本はそこで、自分は当時の北朝鮮の最高指導者、金日成の長男、金正日とパーティーに同席していたことを知った。それからしばらくして、1台のメルセデス・ベンツが再びアンサンワンの前に止まった。金正日が腹をすかせている、ということだった。そして藤本は、北朝鮮の首都の中心に隠された8番宴会場へと送られた。このルーティンはそれから10日間続いたが、彼は次期労働党総書記に寿司をふるまっていることを口外しなかった。こうして、寿司をきっかけに、藤本と金正日は仲を深めていく。
藤本はのちに、この不思議な関係性について『金正日の料理人 間近で見た権力者の素顔』 という書籍にまとめ、この度初めてフランス語版が発売された。舞台は、北朝鮮の〈闇の時代〉と呼ぶべき時代。政治的には、襲撃や暗殺が頻繁に起こり、国民は文字通り飢えていた(1990年代中頃、少なくとも100万人の国民が飢餓で亡くなったとされている)。藤本の料理や人柄を評価していた金正日は、藤本にメルセデス・ベンツV450や、北朝鮮の滞在許可まで与えた。
当時、北朝鮮のエリートたちは特権的な生活を送っており、1988年、ついに藤本もその一員となる。金正日の専属料理人として仕え、彼のそばにいるよう命じられたのだ。料理を提供するだけではなく、金正日の側近として日々を過ごし、さまざまな恩恵を授かった。たとえばバカラ遊びのさいは、その賞品としてピアノ、ソニーのカムコーダー、暖房便座などが用意されていた。藤本の料理や人柄を評価していた金正日は、藤本にメルセデス・ベンツV450や、北朝鮮の滞在許可まで与えた。さらに、民謡歌手でボクシングのチャンピオンだった厳正女と藤本を引き合わせた。ふたりはのちに結婚したが、その結婚式の日取りを決めたのも、藤本のパスポートを没収したのも金正日だ(藤本の忠誠心を確信するためだ)。
こんな思い出もある。結婚式の二次会で、ヘネシーXOのボトルを一気飲みさせられて気絶した藤本が目を覚ますと、誰かに陰毛を剃られていたことがあった。彼によると、酒の一気飲みは金正日の仲間うちでのお決まりのお遊びだったそうだ。金正日はパーティーで参加者たちにコニャックのショットをどんどん一気飲みさせるのが常だった。飲むたびに100ドルの賞金が与えられるが、吐いてしまったらすべて没収となる。金正日自身は、医師の勧めに従い、たびたび長い禁酒生活を送っていたが、ときには羽目を外していた。自身の所有するヨットでの船上パーティーで、金正日がプラ袋に放尿し、その袋を頭上でぐるぐる回して海に放り投げたこともあった。
金正日の食事は贅を尽くしたものだった。藤本は食事の材料を市場ではなく、飛行機で仕入れにいっていた。フルーツはシンガポール、キャビアはロシアかイラン、魚は日本。藤本が母国から1トンもの魚を持ち帰ることもザラにあった。
北朝鮮の最高指導者にとって、料理の追求のために不可能なことはなかった。たとえば藤本がウナギについて教えたところ、金正日はウナギ養殖用の池を造らせた。金正日にとって食は、日頃蓄積しているストレスのはけ口だった、と彼の食に対する情熱について藤本は説明する。「食べ物はまず、かたちや色をみて目で味わうべし」とは金正日の言である。そのため、料理人たちは米一粒まで厳選し、完璧なものだけを総書記の前へと出す必要があった。
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金正日は、料理における微細な変化も見逃さなかった。彼にとって食事とは、ただ味わうものではない。目でも楽しむものだった。「食べ物はまず、かたちや色をみて目で味わうべし」とは金正日の言である。そのため、料理人たちは米一粒まで厳選し、完璧なものだけを総書記の前へと出す必要があった。食への強いこだわりをもつ総書記は、藤本が教えた魚の活き造りを好んだ。しかし同時に、インスタントラーメン、特に日清のラ王が大好きだったという一面もあった。
藤本は北朝鮮の独裁者のそばでの暮らしを楽しんでいたようだが、やはり独裁者は独裁者だ、と感じさせるエピソードもある。金正日は常に、誰がボスかを示すことを怠らなかった。たとえば、中国東北部と北朝鮮の国境となっている鴨緑江でのジェットスキーレースで藤本が圧倒的な勝利を収め、自分への総書記の評価を高められた、と思っていたが、その1ヶ月後、金正日からリベンジを求められた。自身はよりパワフルな最新モデルを用意し、藤本をこてんぱんにした(なお、金正日がジェットスキーレースに興じているとき、北朝鮮では大規模な洪水の被害に苦しんでいた)。その数年後、藤本は再び総書記の機嫌を損ねることになる。金正日の所有する建物の一部屋で週末を過ごした藤本が部屋を片付けなかったため、平壌の体育施設で寿司を作るという6ヶ月の強制労働を科された。
このようなことは何度か起きていたが、藤本は金正日のもとで過ごす役割を気に入っており、北朝鮮を出ることは考えていなかった。気持ちに変化が現れはじめたのは、2000年代に入り、日本のスパイと疑われ、2年弱、自宅アパートで軟禁状態に置かれてからだった。
風向きが変わったことを悟り、拷問に処されるのでは、という恐怖にとりつかれるようになった彼は、軟禁から解放されたら国外へ逃亡する計画を立てた。この奇妙な生活が始まったのは料理がきっかけだったので、ここから抜け出すときのカギも料理だろう、と考えた。2001年3月、総書記にテレビ番組『どっちの料理ショー』のウニ丼特集回を観せると「美味そうだ」と総書記が食いついた。藤本はこの好機に飛びついた。北海道へ高級ウニを買い出しに行ってくる、と提案し、その提案は受け入れられた。その1ヶ月後、飛行機に乗った藤本の荷物は、いつもよりも少し大きかった。彼はこうして友人であった独裁者と別れ、母国へと帰還した。北海道へ高級ウニを買い出しに行ってくる、と提案し、その提案は受け入れられた。その1ヶ月後、飛行機に乗った藤本の荷物は、いつもよりも少し大きかった。
それから約20年が経ち、それもすっかり過去の話となった。藤本は2013年に金正恩から招待を受けて北朝鮮に戻り、現在も北朝鮮に暮らす。平壌で寿司屋と小さなラーメン店を営んでいるそうだ。This article originally appeared on VICE France.