手錠をかけられ格子に立つ囚人

写真はldsmag.comより

何年か前に届いた手紙の差出人住所がすぐに目につきました。それはユタ州刑務所からの手紙。しかも、凶悪犯罪者用の刑務所の囚人からでした。瞬時に興味をそそられたわたしは、封筒を破り手紙を読み始めました。それは死刑囚監房にいるダグ・ラベルからでした。彼の話はわたしを驚嘆させました。

刑務所からの手紙の内容

数年前にPBS(Public Broadcasting Service:公共放送サービス、アメリカ合衆国の非営利・公共放送ネットワーク)でわたしたちの『Breaking the Curse』というインドでのハンセン病患者と携わる活動について1時間の特番が放送されました。同特番は大変好評で、PBSで1000回以上放映されました。その年のグレイシーアワード(Gracie Award)という賞も受賞したくらいです。しかし、この特番がわたしに最も衝撃をもたらしたのは、この刑務所からの手紙によってでした。

ダグは独房でこのドキュメンタリーを見て大変感銘をうけたようです。彼はわたしたちのプロジェクトを支援するために毎月5ドル(約500円)の寄付をすることにしました。シェービングクリームやデオドラントなど生活必需品を購入するために州から毎月30ドル(約3000円)支給されるのでそこから寄付ができると言います。ダグは毎週、節約して残ったお金でコーラが一缶買えるので、コーラを買うのをやめることによって寄付金を捻出できると思ったそうです。わたしは彼の決意がどれくらい続くものかと思いました。

彼から毎月時計のように正確に小切手が届くようになりました。それが何か月か続いてから、わたしは彼にお礼状を送りました。彼からすぐに返事が来たので、わたしと彼のおもしろい文通の関係が始まりました。

今では彼との文通が10年続いています。実際に刑務所に(そうです、凶悪犯罪者が収容されている刑務所です!)に何度も彼を訪問しに行ったこともあります。彼はわたしたちのインドでの活動にとても献身的になりました。彼の寄付はすぐに毎月10ドル(約1000円)に増えました。それは彼の収入の三分の一に値します。刑務所内で新たな収容者に食事を届けるという仕事につくことによってより多くの額を寄付できるようにしたそうです。それはまるで津波のような影響力を持ちました。

彼が接する新たな収容者たちは、たいてい憂鬱で希望のない生活をしていました。自己嫌悪と自分の価値のなさに押しつぶされているのです。ダグは彼らの気持ちがよくわかります。彼は強姦殺人といういまわしい罪を犯し長年刑務所に収容されていて、もう自分には救いも赦しも可能性のないものという理解をしていました。しかし、彼は次第に神様へと改心し直し、今では自分にできることすべてをして苦しむ人を助けたいと望んでいます。

彼は下を向き、重い心で落ち込む男性たちを、彼らがどんなことをしてしまっても、まだ神様を求めることはできる、事実、主は両手を広げ、わたしたちが話してくれるのを待っていらっしゃると静かに励まします。彼らがそれを信じないと、こう言うそうです。「ベッキーに手紙を書いてみるといいよ。」

その結果、わたしは今では30人近くの収容者と手紙のやり取りをしています。夫はわたしの文通相手は監獄者ばかりと笑います。彼らは神様がまだ彼らを愛しておられ、彼らにはまだ何らかの価値があると知りたくて必死です。彼らの罪は、 伝道中の二人の息子を持つ、知能犯罪に携わった元ステーク会長会から複数の子供を虐待した男まで広範囲にわたります。

刑務所で話をする

ダグは、わたしが収容者に話をするべきだと刑務所のビショップを説得したので、わたしは毎週行われる末日聖徒イエス・キリスト教会の礼拝行事で刑務所の一般施設の収容者たちに向かってお話をするよう招待を受けました。「霊の永遠の価値」というテーマでお話をすることにしました。話者はわたしだけで、お話の時間は40分でした。

収容者たちが礼拝堂に集まるのをビショップと共に入り口で迎えました。ひとりひとりが名前を言い自己紹介してくれました。わたしはひとりひとりと握手をしながら、笑顔で彼らの目を見て、彼らの名前を繰り返しました。礼拝堂は満員でした。

会衆を見回し、彼らの表情に打たれました。多少傲慢な、恥を感じているような人たちもいましたが、大多数は謙遜と苦悩の表情を浮かべていました。わたしは言うべきことがわかるよう導きを求めて祈りました。

お話をしながら、参加者の表情が変わるのを見ました。少し希望が見えてきた様子がありました。涙ぐむ男性もいました。無表情のままの人もいました。前もって、終了10分前になると電気が明滅し、それを合図に多くの人が他の選択活動をするために退出するだろうと言われていました。その警告どおり、電気が明滅すると30人ほどが席を立ち退出しました。そして信じられないことに、1分後には退出した人のほとんどがまた部屋に戻ってきたのです。中に戻れるように看守を説得したそうです。彼らは明らかに、神様にとってまだ価値があり、神様は彼らを赦してくださり、彼らの選びに関わらず愛してくださるということを聞くのに飢えていました。

お話を終えると、多数の男性がわたしにお礼を言うために待っていました。話ながら言葉に詰まる人がいました。明らかに現状に恥を感じながらも、彼らはそっと、わたしの言葉は彼らのためのもので、彼らが聞く必要のあったことだと感じた、と言ってくれました。

この行事のすべてが大変謙遜にさせられるものでした。

それから数日後、刑務所の他のワードのビショップから手紙が届きました。今度は凶悪犯罪者の施設からです。次の日曜日に、そちらの施設の収容者たちに同じメッセージを分かち合ってくれないかということでした。わたしはその要望に応え、また素晴らしい経験をしました。

今回は一般礼拝行事はありませんでした。かわりに収容者たちとはひとりもしくはふたりずつ面会をしなければなりませんでした。彼らは腰まわりを鎖でいすにつながれていました。彼らの足も、手も鎖で縛られていました。すこし変な気持ちがしましたが、わたしは再び、彼らがどれほど神様へと戻る道を見つけることに飢えているかに衝撃を受けました。

特にひとりの男性に感銘を受けました。とても長身の黒人男性でした。彼は、彼が神様のもとへもどれる道があるのか知りたいと話しました。彼は新約聖書を読み始めたと言います。彼に家族のことを尋ねると、父はサウスカロライナ州でプロテスタント派の教会の牧師だと教えてくれました。

「父ジョン牧師は善い人です。家族全員善人なのに、わたしだけは違います。」最後の部分を言いながら、彼は下を向き、恥を感じていました。もっと話してくれるよう促すと、彼は躊躇しながら続けました。「わたしは父の恥です。」わたしは彼に父親に連絡をしたのかと尋ねました。彼は何度もお金を送ってくれないかと手紙を出したが返事がないと言います。

わたしは彼に、かわりに父親に連絡を取って欲しいかたずねました。「ええ、とても。」と彼はうなずきました。わたしは彼から父親の電話番号を受け取り、父親に伝えて欲しいことはなにかと聞きました。彼の返事は「彼に、彼と母と、兄弟姉妹たちをどれだけ尊敬しているか伝えてください。わたしがどれほど申し訳なく思っているかと、もう変わる準備ができたと伝えてください。わたしが何よりも欲しいのは、いつか父が誇りに思えるような人間になることだと伝えてください」というものでした。

わたしは「わかりました」と返事をし、「でも、お父さんと連絡が取れたら、あなたが家族との関係を修復できるまではわたしもあなたもお金を請求することはしませんよ」と言いました。彼は驚いた様子でしたが、同意しました。

天の御両親が地上の父親だけではなく天のお父様とお母様のもとへ戻りたくてたまらないこの必死なこどもにどのような反応をするのかと考えました。彼の地上での父は彼を拒絶するかもしれませんが、天の御両親は絶対にそうはしません。

彼の父親に連絡を取ろうと2週間努力を続けています。母親ならきっともう少し話が分かってくれそうなので、彼女の連絡先があればいいのにと思います。彼の父が受け入れ、心を開き、赦しの心を持ってくれるように祈っています。彼の兄弟姉妹たちが彼を迎え入れてくれるよう祈っています。そして彼の教会に集う人たちが赦しの心を持ってくれることを祈っています。


裁かない

彼がわたしたちの教会を訪れたら、裁かれるよりも、歓迎され、励まされるように望んでいます。悔い改めをしたとしても罪を犯した人を恐れるのは容易なことです。自分とは無関係の問題に苦しむ人を責めることは簡単なことです。ウークトドルフ管長が言った「あなたとは違う罪を犯しているからと言って、わたしを裁かないでください」という言葉を覚えておきましょう。犯罪者が社会に償いをする必要はないと言っているわけではありません。それは当たり前のことです。それは悔い改めの過程の一部だと信じています。しかし、裁きは神様に任せて、わたしたちひとりひとりは赦すことが求められるというのがわたしの主張です。

最近インターネットで、離婚を経験した会員が教会で仲間はずれになったり否定されたりすることや、伝道から早めに帰還した宣教師たちがまわりから裁かれ、ふさわしくないと感じること、独身会員が地位の低い会員として扱われているように感じることなどについての記事を読み興味深く思いました。

わたしたちはもっとましな対応ができるはずです。会員たちみんなが刑務所の礼拝行事で壇上に座り、日曜日の自由時間に、スポーツや他の活動をするかわりに神様とまた繋がろうと努力をする100人の男性の顔を見る機会があればいいのにと思います。彼らの飢えは明瞭でした。わたしたちがそれぞれ裁き、拒絶し、責める側ではなく、高め、励ます側の人間となれますように。

この記事はもともとBecky Douglasによって書かれ、ldsmag.comに投稿されました。

 

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キャンベル葵さんは東京都出身です。ブリガム・ヤング大学ハワイ校で英語教授法を専攻しました。在学中は一時休学し、アメリカのテキサス州で末日聖徒イエス・キリスト教会の専任宣教師として奉仕活動をしました。料理や、手芸、エクササイズなど、様々なことに挑戦するのが好きです。
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