日本将棋の歴史(4)

日本将棋連盟Ⓒ

最初の棋士団体「将棊同盟會」

新聞棋戦と対局料

前に述べましたように、1908年(明治41年)9月に初の新聞棋戦(「萬朝報」の〝高段名手勝継将棊〟)が始まり、以後各新聞社が棋戦を連載するようになります。新聞棋戦の開始により対局料が支払われるようになったことは、棋士にとって、とても大きな出来事でした。それでも、ほとんどの棋士は副業がなければ生活できなかったのです。
「萬朝報」記者の三木愛花は、東京市京橋区(現:東京都中央区)明石町の自宅を対局場として開放しました。当時の棋士は、裕福ではなく、対局する場合も着流しでした。対局など改まった席では、袴を着けてもらいたいと考えた愛花は、自宅に数着のセルの袴をいつも備えていました。さらに、月刊の将棋雑誌「将棊新報」を創刊(同41年12月号)、毎号いろいろなテーマで執筆しました。

三木愛花・萬朝報記者=『写真でつづる将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ=現・マイナビ出版=刊)から

「将棊同盟會」の結成

新聞棋戦の対局が増えるにつれ、棋士同士が顔を合わせることも増えてきます。棋士がばらばらでは好取組も見られないし、世間にも評価されにくいので、愛花は「将棊新報」誌上で棋士の団結を訴えて1909年(明治42年)8月8日、関根金次郎八段を中心にした初の棋士団体「将棊同盟會」の結成まで漕ぎ付けます。以後、毎月第1日曜に定式会を開くことを決め、対局が行われました。
同年10月3日、3回目の定式会で「将棊同盟社」と改称(「會」より「社」の方が、規模が大きく見える、という意見から)します。同盟社専属棋士は23人で、「将棊新報」(1909年11月号)にその名簿が載っています。
 四段 石原 勇吉   四段 太田 忠翁
 五段 堀川 英歩   四段 岡村豊太郎
 四段 豊島太郎吉   二段 奥野 一香
 四段 土居市太郎   四段 黒川 潭龍
 六段 川井 房郷   六段 矢頭 喜祐
 六段格勝浦松之助   六段 矢島新太郎
 四段 勝山庄次郎   四段 寺田淺次郎
 三段 田中武次郎   六段 簑 太七郎
 五段 村上由之助   四段 森  永龍
 五段 村越 為吉   八段 関根金次郎
 四段 上田 愛桂   三段 鈴木 香芸
 八段 井上 義雄

八段時代の関根
八段時代の関根

棋士の副業

明治時代の棋士は、将棋を指すだけでは生活が成り立たなかったため、ほとんどが副業を持っていました。例を挙げてみます。(段位は当該棋士の最高位を表す)
・飯塚 力蔵(龍馬)八段→貸し座敷(遊郭)の主人。駒台の発明者。※「力蔵」は「力造」と記す例もあります。
・川井 房郷七段→亀甲細工業。
・蓑 太七郎七段→富山の薬行商。
・矢島新太郎(五香)七段→小間物屋(日用品、化粧品などを売る店)。「小間新さん」と呼ばれていました。
・村上由之助(桂山)六段→常磐津節(浄瑠璃の流派の一つ)の太夫(語り手)。
・豊島太郎吉六段→材木商、駒師。
・石原 勇吉五段→八百屋。「八百勇さん」と呼ばれていました。
・奥野 一香四段→盤駒商店、駒師。
※木見金治郎九段(大阪)は古鉄商、のちにうどん屋を副業とし、大正末期に弟子の大野源一九段が出前持ちをしていたことは有名な話です。