日本将棋の歴史(3)

福音の神戸大会

新聞棋戦の始まりは1908年(明治41年)9月11日付の「萬朝報」"高段名手勝継将棊" からでした。前年に神戸新聞社が関根金次郎と井上義雄との八段同士の対局を実現した神戸大会を開き、大きな話題を呼んだことが新聞棋戦開始のきっかけになったのです。
1907年(明治40年)10月、地方紙の神戸新聞社が関根、小菅剣之助、井上の各八段らを招き、神戸市下山手通り「神港倶楽部」で将棋大会を盛大に催します。八段同士では関根対井上戦が行われ、2勝1敗で関根が勝ちます。小菅は所用のため三重県四日市に帰郷したため、神戸新聞社から関根に優勝の懸賞銀杯が贈られました。

神戸大会を主催した神戸新聞の社告=1907年10月15日付
神戸大会を主催した神戸新聞の社告=1907年10月15日付

19年ぶりの八段同士の対戦

「神戸新聞」の呼びかけに応えて関根金次郎、井上義雄、小菅剣之助の三八段が神戸市に集まり、平手で戦うことになります。
この時代は八段同士の対戦が極めて珍しく、1886年(明治21年)4月10日に榊原拙叟の四段昇進を祝う「将棊会」で、大矢東吉八段と小野五平八段が平手で対戦して以来19年ぶりの八段戦でした。
その後、大矢が亡くなり、小野が名人を襲位したため、八段は関根、井上、小菅の三人しか存在しませんでした。当時、八段は「准名人」の尊称を持つほど高く評価されていました。関根40歳(数え、以下同じ)、井上、小菅ともに43歳の指し盛りでした。
主催者の神戸新聞社は1907年10月14日付から三八段による"将棋大会"の社告を、対局者の写真入りで大々的に連載して、前景気をあおりました。
翌15日付の社告から(原文のママ)。
《   將 棋 大 會
            關根金次郎氏
     對局者    小菅劒之助氏
            井上 義雄氏
將棋八段准名人關根金次郎氏は從来永く本社将棋欄の担當顧問として斯道の開發に熱心せられ(略)關根八段の外伊勢の巨璧小菅劒之助氏東京の偉星井上義雄氏等を初めとして有段有數の諸將星數百名を来る本月二十日(日曜日)午前九時より當市下山手通神港倶楽部に會し關根、小菅、井上三氏の手合を初め其他の手合大會を開催すべし》
全面が七段組みだった当時、見出し、本文とも二段組みの破格の扱いでした。

「神戸新聞」に掲載された小菅、関根、井上、各八段の顔写真
「神戸新聞」に掲載された小菅、関根、井上、各八段の顔写真

囲碁・将棋のコラム「棋道談笑」欄を設ける

関根と神戸新聞とのつながりは、1906年(明治39年)に神戸新聞に関係していた川崎造船所の川崎正之氏の紹介で、関根の略伝が連載されたことから始まります。以後将棋欄の担当顧問として、地方の遊歴先から詰将棋を出題したり、実戦譜の解説をするようになっていたのです。
また、神戸新聞社は1906年9月3日付から読者の投稿による囲碁・将棋のコラム「棋道談笑」欄を設けます。第1回、第2回は囲碁、第3回は将棋で、関根が「生別の悲劇」(1906年9月5日付)と題した一文を投稿しています。

「棋道談笑」に掲載された関根八段の投稿文=「神戸新聞」明治39年9月5日付
「棋道談笑」に掲載された関根八段の投稿文=「神戸新聞」明治39年9月5日付

※関根、井上、小菅の詳しい棋歴は、今後折を見てご紹介します。

初手合わせの関根―井上戦

八段同士の対局は、まず10月20日に関根―井上戦が行われます。関根、井上ともに八の字ひげを蓄え、はかまで端然と対座しました。会場の神港倶楽部は、数百人を収容できる神戸随一の貸席でした。のぞき眼鏡式のキネトスコープ、いわば一人だけ見られる「活動写真」を、1896年(明治29年)に日本で初めて公開した場所です。
関根―井上戦は初手合わせで、相掛かりの戦型になりました。大混戦の末、日付の変わる翌21日の午前零時に先番の井上が逆転勝ちしました。
さらに、1時間の休憩後「気合の乗りたる」ため2局目を開始しますが、やはり互いに疲労が甚だしく、わずか2時間後に先番の関根が勝ち、1勝1敗としました。

小菅の"酷評"

関根の兄弟子でもある小菅は、師匠の伊藤宗印十一世名人が逝去(1893年1月6日)した後に将棋界と遠ざかり、三重県伊勢で米穀取引所仲買人として成功していました。
疲労しながら連続対局した関根と井上に対し、小菅は「軽擧亦甚だし」と講評ならぬ"酷評"(「神戸新聞」同年10月30日付。原文のママ)をしています。
《両氏は現下の地位と本局に對する事況とを比鑑して斯道を軽んずるの憾は之なきや譬へ神戸新聞社の嘱託あるにもせよ斯道は神聖なり、両氏は准名人なり、然るに第一局を終り次で本局を終局するが如き抑も軽擧上がる亦甚だしと云はざるを得ざるなり》
関根雪辱後の第3局は21日午前11時から会場を「山手倶楽部」に移し、振り駒により関根の先手番で始まりました。戦型は1、2局目と同じく相掛かりになり、翌22日の午前零時に関根が快勝、2勝1敗で井上に勝負勝ちしました。
後日、井上は「萬朝報」記者の三木愛花に反省の弁を漏らしています(原文のママ)。 《第一局に勝つたのであるから此処で勝つて兜の緒を締め、第二局は翌日にでも譲つて其晩は静養すべきであつたのを軽率にも第二局を続けて指し、之れには脆き負けをし其隋力で三番目まで負けるのは自分の一生の不覚で棋界に取つて能き戒めである》(「将棋新誌」1927年〈昭和2年〉2月号から)
神戸大会には、愛媛県三津浜から関根に弟子入りしたばかりの土居市太郎(のち名誉名人)青年も出席していました。両対局者が第一局に続いてすぐに第二局を対局したことについて、土居は別の受け取り方をしています(「将棋世界」1941年〈昭和16年〉2月号掲載「棋界盛衰記(三)」から)。
《私がいまだに感嘆してやまぬことは、其時の兩先生の意氣盛んなことで、精根をつくした一局が終るや直ぐ二局目に移るなどといふことは今の棋士にはちよつと想像も出来ないことである。現在の將棋は技倆の點ではたしかに進歩したがその熱と力の點では果して昔と今とどうであるか? 將棋界の盛衰の分岐點ともいふべきその時代に、先輩達が如何に死身になつて努力されたかはその一事を以てしても明かで、私は感謝の念措く能はざるものがあるのだ。》

関根優勝、懸賞銀杯を受ける

本来なら、勝者の関根と小菅との間で決戦対局を行うところですが、所用のため小菅は10月22日までしか神戸に滞在できませんでした。やむなく神戸新聞社は関根を優勝者とし、懸賞銀杯を授与、その実力をたたえました。
関根が井上と第3局を戦っていた10月21日に小菅は、阪田三吉六段(贈名人・王将)と戦っていました。香香角交じりの香落ち番でした(阪田勝ち)。

小菅、関根の異例の手合い

その後も八段同士の対局が行われていきます。同年10月27日には、「大阪時事新報」主催で関根八段対井上八段戦が大阪市東区博労町で行われ、関根が勝ちます。
同年11月には関根が四日市で小菅と対局します。ただし、この時の対局は平手ではなく、双方香の相引きという異例の手合いで、2局行われました。まず11月17日に香を落とした小菅が勝ちます。11月19日は関根が香を落として敗れます。どちらも四日市の高砂町「山田楼」で行われました。
2連敗した関根は、さらに小菅に対局を申し込みます。12月1日に名古屋市車町「宮房楼」で行われ、香を落とした小菅が続いて勝って3連勝します。小菅の強さが際立つ結果になりました。小菅対関根戦の全3局は「神戸新聞」「萬朝報」に掲載されました。
神戸大会の盛況ぶりを新聞紙上で知り、棋界入りを決意した青年が大崎熊雄(贈九段)でした。
歴史的に見ると神戸大会こそ、衰退していた将棋界が発展していく基盤になる福音だったと言えるかもしれません。