ネルソン大管長はこれまで教会の責任を果たす中で、どのような状況下においても人生に喜びと感謝を見出せるように教えてくれました。今回は、著書「ラッセル・M・ネルソンの教え」の中から、このトピックに関連する箇所を抜粋して紹介します。

わたしたちは世界の歴史上で最も活気ある時代に生きています。わたしは毎朝起きる時に、その日に与えられる冒険を楽しみにしています。人生という贈り物が与えられた皆さんも、同じように日々の生活に元気いっぱい立ち向かえるようにと願っています。

わたしたちの住む世界は深刻な試練に満ちていますが、将来のことは楽観的に考えており、人類は根底に善意を持っていると確信しています。

ほかの教会の指導者や会員たち、そして各地の善良な人たちが、どこであろうと人の苦痛を柔らげるため、常に思いやりの手を差し伸べている様子に感銘を受けています。

世情や各々の境遇にかかわらず、もし皆さんがイエス・キリストと主の福音に信仰を持つならば、明るく喜びに満ちた将来を迎えられることを約束します。(「Go Forward with Faith」2019年1月16日記者会見)

 

神に感謝を示す

新しい朝を迎えること自体が神の賜物であると自覚することから、霊的自尊心は生まれます。人が吸う空気でさえ、神からの愛に満ちた借り物なのです。神は日々私たちの命を存続させ、いかなる瞬間にもわたしたちを支えてくださるのです(モーサヤ2:21参照)。

ですから、目覚めて最初にする高貴な行いは、感謝の念を込めたへりくだった祈りでなければなりません。聖典では「(あなた)が神に祈るならば、神は(あなた)を顧み、喜びをもって、み前にいたらせ」(ヨブ33:26;アルマ34:21;37:37参照)と勧告しています。

わたしは自分自身が親になるまで、祈りというあいさつの大切さについて十分理解することはありませんでした。子供たちがわたしたち親に対して、口を閉ざすことがなかったことに感謝しています。このことを通じて、今では天父が私たちの朝夕の祈りをなぜ喜んでくださるのかが分かりますし、子供たちが黙っている時の神の悲痛な心も想像できるようになりました。(「朝と共に喜びが来る」『聖徒の道』1987年1月号)。

すべての人が神の摂理と愛にもっと気づき、神に感謝の気持ちを表すことができたら、どんなに素晴らしいでしょう。アンモンは次のように教えています。「〔神〕に感謝を捧げよう。神はとこしえに義を行われるからである」(アルマ26:8)。感謝の度合いで、神に対する愛の深さを計ることができます。(「神に感謝しましょう」『リアホナ』2012年5月号)

 

忘れられない感謝祭

ある年にネルソン姉妹とわたしが開いた感謝祭の集まりは、忘れられないものになりました。集まった人の中には、地元に住んでいる娘、息子、孫たちもいました。夕食会には63名が出席しました。夕食後の活動として、「今年、わたしはOOに感謝しています。」と書かれた紙をネルソン姉妹が一人一人に配りました。紙の下の部分は空白でした。彼女は各自に空白の部分に文章か絵を描くように言いました。その後、ネルソン姉妹はその紙を集め、ランダムに配り分けました。わたしたちは誰が何を書いたのかを当てるように言われましたが、それは難しいことではありませんでした。

その時、わたしはあるパターンに気がつきました。ほとんどの子どもは食べ物、洋服、家、家族に感謝をしました。ペットに感謝をする子もいました。子供たちの絵は画廊に飾られるようなものではありませんでしたが、特別なものでした。青年たちはそこから幅を広げ、国、自由、教会についても感謝をしました。大人たちはこれらすべてを挙げましたが、そのほかにも神殿、主への愛、イエスの贖いに対する感謝を付け加えました。彼らの抱いている希望には感謝が入り混じっていました。祝福を数えることは、問題を数え直すことよりもはるかに良いことです。(「さらに素晴らしい希望」教会教育部ファイアサイド1995年1月8日)

 

感謝、喜び、希望に目を向ける

「人知ではとうてい測り知ることのできない」(ピリピ人への手紙4:7)平安をもたらしてくださるのと同様に、救い主は人の論理や理解が及ばないほど強く、深く、満ち足りた喜びをも与えてくださいます。例えば、子供が不治の病にかかったときや失業したとき、伴侶に裏切られたときに喜びを感じるのは、不可能なことのように思えます。しかし、それこそが救い主の用意してくださっている喜びなのです。主の喜びは絶えず、わたしたちの「逆境と……苦難は、つかの間にすぎ」ず(教義と聖約121:7)、聖別されてわたしたちの益となることを確信させてくれるのです(ニーファイ第二書2:2)。

では、どうしたらその喜びを得られるのでしょうか。まず、「あらゆる思いの中で」、(ヘブル人への手紙12:2)「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見」(教義と聖約6:36)ることから始められます。祈りの中で常に感謝を表し、主と天父と交わした聖約を守ることができます。わたしたちが救い主をより身近に感じるにつれ、また主の喜びが与えられるよう切に願い求める中で、わたしたちが感じる喜びは増すことでしょう。

喜びには力があり、喜びに目を向けるなら、生活に神の力を取り入れることができます。すべてにおいて、イエス・キリストは最大の模範であり、「自分の前におかれている喜びのゆえに、……十字架を忍」ばれました(ヘブル人への手紙12:2)。そのことを考えてみてください。この地上で最も耐え難い苦しみに耐えるために、救い主は喜びに目を向けられたのです。

では、主の前に置かれた喜びとは何だったのでしょう。わたしたちを清め、癒し、強める喜び、悔い改めようとするすべての人の罪の代価を払う喜び、わたしや皆さんが清くふさわしくされ、天の家に帰り、天の両親や家族とともに住むことを可能にする喜びが含まれていたはずです。(「喜びー霊的に生き抜く道」『リアホナ』2016年11月号)

わたしたちは聖典にかたどられた人生を歩むときに、幸福になることができます。聖典は、わたしたちが切望する「希望の輝き」について語っています(ニーファイ第二書31:20)。しかし、希望が現世の限られた瞬間だけにとらわれたものならば、わたしたちは必ず失望することになるでしょう。わたしたちの究極の希望は主の贖罪に基づいていなければなりません。主はこのように言われました。「わたしの戒めを守り、最後まで耐え忍ぶならば、あなたは永遠の命を得るであろう」(教義と聖約14:7)。

その目標を理解していれば、わたしたちは恐れの代わりに信仰を抱き、そして絶望の代わりに貴い希望を持ちながら未来に向かうことができるでしょう(「さらに貴い希望」教会教育部ファイアサイド1995年1月8日)。

この記事はもともとRussell M. Nelsonによって書かれ、ldsliving.comに “Insights from President Nelson to Bring More Gratitude and Joy into Your Life”の題名で投稿されました。