圧倒的な光を放った
ショックが大き過ぎる訃報である。高田賢三さん、81歳。新型コロナウイルス直前まで日本にも長く滞在し、フェイスブックでとても80代には見えない近影をよく拝見していた。本当にお元気そうだった。信じられない、信じたくない。
賢三さん本人がデザインしていたころのKENZOのメンズウェアは本当に良かった。パリのヴィクトワール広場にあるメゾンで行われるコレクションは、最高に美しかった。1980年代後半に初めて目にした時、KENZOを見るためだけにも毎シーズン、パリのメンズ・ファッションウィークを取材しなければと心に誓った。そのくらい圧倒的な光を放っていた。
それは、メンズスーツの基本形に、KENZOならではの色彩をのせたもの。顧客はスーツを知り尽くしている英国人やフランス人が多かった。一流の弁護士や大学教授などがセミオーダーを楽しんでいた。もちろんドイツ人やスペイン人にとっても、同様に憧れのブランドだった。
あらためて振り返ろう。フランスからはレジオン・ドヌール勲章(2016年)を、日本では紫綬褒章(1999年)を受勲している賢三さんは、文化服装学院卒業後、1965年、パリに船で渡る。当時の渡欧はそれが一般的だった。
現地で手持ち資金が尽き、いよいよ帰国という日の直前に、当時の人気デザイナーのアトリエに飛び込みでデザイン画を見てもらい、奇跡のキャリアが始まる。1970年にはパリに自らのブティックをオープン。日本の着物地の端切れなどを使った個性的な服が大評判になる。パリモードの先端は当時までオートクチュールが中心だったが、KENZOの出現で「既製服=プレタポルテ」が大浮上。パリ・ファッションウィークが現在のカタチになったきっかけが、まさにKENZOブランドであり、すなわち世界のファッション史を変えるほどの存在が、賢三さんであった。
欧米人的なエスニック
インタビューでパリの自宅を訪ねれば、門から玄関までの竹林や、リビング内のプールに驚いた。そこには、いつ賢三さんが飛び込んでもいいように、きれいな水が常に張られていた。そもそもパリ中心部に一軒家があるということが、本当に特別なこと。しかし室内はシックでモダンだった。プレタのコレクションでは明るい色柄を使い、時に異国情緒にあふれていたが、それは「欧米人的な感覚によるエスニック風の表現」であったのだと思う。
賢三さんのメンズ服が欧米人男性によくうけたのは、そういうことも理由だろう。英国やフランスの大都市では当時、敏腕トレーダーが赤紫のジャケットを羽織ったり、医者が明るいナス紺のセットアップを着たりすることが、珍しいことではなかった。その彼らには、伝統をひとひねりした思いがけないチェック柄などもよく似合い、とても好んで使われていた。
すなわち、KENZOのメンズには、ラグジュアリーの本当の顧客がついていた。日本でも、「僧侶が(KENZOの)ネクタイを大切に使っていた」と、今日(10月5日)の昼の情報番組で登場した曹洞宗宝林寺住職の千葉公慈さんがコメントしていたが、考えてみれば、賢三さんの色や柄使いは、ご本人の優しくポジティブで健康的な思考をする人柄の反映のようにも見えた。だからこそ、賢三さんの服によって着る側も見る側もハッピーになったのだ。
1990年代後半まで行われていた、賢三さんによるメンズウェアのファッションショーを、できることならもう一度見たい。そして、やさしい笑顔を拝み、温かい声を聴きたいと切に思う。