見出し画像

百合俳句鑑賞バトル 一回戦「人形のだれにも抱かれ草の花」(大木あまり)

課題句(選句:石原ユキオさん @yukioi)

人形のだれにも抱かれ草の花/大木あまり
(『雲の塔』収録、長谷川櫂編著『現代俳句の鑑賞101』より孫引き)

バトル参加者:
穂崎円さん @golden_wheat
松本てふこさん @tefcomatsumoto
 柳川麻衣 @asa_co

萌える! と思った鑑賞文に投票をお願いいたします。https://twitter.com/asa_co/status/851042978319618048


A.

 赤ん坊サイズの人形が浮かぶ。高価なドレスを着たビスクドールなどではなく、抱きしめても振り回しても平気なように作られた人形。個人的にはシリコンより布がいいなと思う。投げ出された手足はきっと、くったり柔らかい。
 だれにも抱かれ、という表現は抱くという語の別の意味も仄めかすが、人形「の」、としたところに人形を突き放さない、自省の響きがある気がする。皆に抱きしめられる人形は誰かや何かを選ぶことをしない。では「私」は?
 季語、草の花は秋の花全般を指す。桔梗、撫子といった名のある花も名もない花も一緒くたの、ある意味乱暴な季語だ。赤い花、白い花、紫の花。ありえた私、もうあり得ない私。かつて私にもありえたはずの道を進んだ、私以外の女の子。その隣にいた私。
 私の選択。選びたくなかった私たち。
 人の形をした存在はいつも、見る者の在り様を鏡のように問いかける。今はみな、一緒くたに秋の陽射しの中だ。

B.

 秋の野に咲く花々を指し、品種を特定しない季語「草の花」と、「だれにも抱かれ」の「だれにも」の匿名性が響きあって、人形の存在感がくっきり浮かび、妙に寂しい。
 だれの手も拒まない人形は、だれかの手をとくべつに恋しがりもしない。かわりばんこに女の子たちに奪い合われ、遊びが終わった途端に忘れられ、野原にぽつんと置き去られても、名もない花々に黙って抱かれているだろう。いつもだれかに囲まれていて、だれにでも屈託なく接する、華やかなひとを思い出す。だれとでも仲のよい彼女に、とくべつなただ一人はいるのだろうか。
 「抱かれ」という言葉づかいにドキッとする。対象は「人形」なのだと思えば自分の邪心が後ろめたくもある。愛に受動的なひとをとりまく輪には男もまじっているのに、彼女はあくまでも無邪気にすべてを受け容れてしまう。少し遠くからそれを見つめる視線には、やはり寂しさが含まれていると思う。

C.

 幼児が持ち歩けて、友達のように感じることのできる人形をイメージした。柔らかく長く、健やかに光を弾く明るい色の髪、冷たくも熱くもない肌、開閉するまぶたと豊かなまつ毛。持ち主である私にとって彼女はどうしたって特別なのに、例えば野原に連れていったりしたら、一緒に遊ぶ友達が彼女の腕を引っ張って奪っても、彼女は嫌がらずに友達の腕の中に収まってしまう。私のことなんて忘れたかのように。
 発見の鮮やかさがただただ眩しい上五中七と、それを受ける草の花の無名性が奇妙な調和を見せるこの句。小さな花を咲かせる草に囲まれて遊ぶ子供の輪の中で、手から手へ渡る人形の姿から、人間と人形との関係のいびつさがさりげないアイロニーと共に浮かび上がる。彼女たちには何も選ばない圧倒的な自由さがある。そう、私がどんなに愛を注いだって、人形である「彼女」にとって私は個体識別する必要のない、単なるモブおじさんなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?