法医学の重要性等々については既にふれたが(同じ押田茂實氏の『法医学現場の真相』の拙レビュー),本書は,(1)袴田事件を初め,東電OL・足利・布川・氷見・飯塚事件などにつき,実に注目すべき(時には,著しく論争的な,あるいは恐ろしい)情報を数多く教えてくれるほか,(2)重要性が飛躍的に増大している「DNA鑑定」の――有罪証拠あるいは無罪証拠としての――抜群の威力を,諸事件を例に,具体的に明らかにすると共に,(3)この点が特別に強調されなければならないが,このDNA鑑定にも致命的過誤が混入する危険が多々あり,その実施にも評価にも注意すべき点が多いこと(また,関連最新情報)を,一般人・素人にも極力分り易く説明している。類書は乏しく,本書の存在意義は絶大と思われる。
とりわけ,DNA鑑定に関わる事件での裁判員(になり得る一般市民),裁判官・検察官,とくに,問題の認識・掘り起こし・指摘の必要性が高い弁護人,にとつて,また,DNA鑑定に関心をもつ学者・研究者にとっても,法医学の権威による本書は,間違いなく,必読書であろう。
(4)袴田事件に関しては,被害者の特定の損傷が,凶器と認定されたクリ小刀で形成され得るかにつき,否定的な鑑定書を作成・提出していること,その後の画期的な静岡地裁再審開始決定の内容・根拠,マスコミに載った木谷明氏(元東京高裁裁判長。名著『刑事裁判のいのち』)と押田氏の各重要コメントの内容,犯行(4人惨殺)時着衣をパジャマから5点衣類に変更したこと等に関する静岡県警捜査記録の注目すべき内容,などが紹介されており(14頁以下),大いに一読に値する。
パジャマには,返り血を浴びたような形跡は全然ないし,被害者らの一部の血液型がパジャマから検出されたとの県警鑑識課の主張は中央官庁たる科警研(警察庁付属機関)にすら支持されておらず,パジャマは事件から4・5日経っての家宅捜索の際に押入れの布団の上にあるのを発見されたもので,隠されてもおらず(いずれの点でも,5点衣類は対照的になっている),警察からみても,証拠としては如何にも不十分と感じられたものと思われる。5点衣類の選択等については,「犯人は従業員」と絞り込まれる中,無実の自分が犯人とされては大変だと恐れる同僚従業員らの協力を得ることも出来たろうし,半袖シャツなどの傷穴・血液型に関しては,袴田(血液型B)がパジャマと同様に事件後も着ていてパジャマと同時に押収された(右肩部分にB型血痕のみ付着の)作業着(28頁)が――被害者らのA・B・AB・O血液型と共に――参考にされ得たようでもある(5点衣類に付着の血液型は,B・A〔・AB〕型)。
なお,有罪認定に与した最高裁裁判長への叙勲は疑問視されている(26頁以下)。これは,健全な市民感覚に沿う。もっとも,関与した個々の裁判官・検察官を非難し得るかは,警察による証拠「捏造」を信じ得たか等の難問も絡み,容易に判断しがたいとの見方も,別に,あり得るかも知れない。
(5)他に印象に残った点も,2つだけ付け加えておきたい。第1に,過誤がないと考えられるDNA鑑定が出たとしても,それだけで結論が左右されるとは限らず,注意が必要だ。たとえば,痴漢事件で,「被害者とされる高校1年生の女子の方が,逆に被告人の股間部分を約10分間にわたってまさぐった」と被告人の方から主張され,実際,この主張を裏付けるように,「被告人のズボンの股間から被害者のDNA型が」検出されたとしても,ある判決も指摘するように,「被告人が被害者の陰部に挿入した手指で,自分のズボンの股間付近を触ることなどによっても,同様の結果となり得るから」,更なる検討が必要になる訳である(本書132頁以下参照)。
第2に,死刑が求刑されたのに対し,一審が「男性が被害者宅に行ったことは事実だが,犯人が現場に立ち入ったことは指紋により推測できるものの,殺害にかかわったとは断定できない」とした著名事件で(ただし,被告人はその後控訴審に入ってから死亡),科捜研(県警付置)のDNA鑑定に不備・不適切等の問題点が模範的に指摘されているのは(194頁以下),これまた実に注目に値する。鑑定は,単に粗雑なのか,それとも作為まで疑わせるのであろうか。関連して,指紋も捏造の疑いありなのか。
ともあれ,本書は極めて有益と思われ,是非多くの人に読んでほしいものである。