Essay · アジアと第二次世界大戦

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敗戦から70年。しかし先の大戦の記憶は東アジアを分断し続けている。

靖国神社の境内ほど7月の東京の夜を過ごすのに心地よい場所はないだろう。檜つくりの神門は深い色を湛えて荘厳な構えである。銀杏並木の参道を歩けば、両側から蝉の声が聞こえてくる。神門の向こうには菊の紋章を染め抜いた紫幕が垂れ下がる拝殿が見える。道はちょうちんで照らされ、ここにやってきた人の大半はうきうきした夏祭り気分で、浴衣などを着ていかにも華やいだ雰囲気だ。飲み食いを楽しむ彼らのそばを神輿と担ぎ手が通り過ぎるとさらにお祭り気分が盛り上がる。

こういった靖国神社の夏の行事は日本の敗戦日、8月15日でクライマックスを迎える。まるで19世紀のロンドン、バーソロミューの市を思い起こさせるように、祭りの間は靖国神社の境内は屋台と人で埋まっている。しかし、ここではみんながそろって楽しい祭り気分に酔いしれているわけではない。深い悲しみが刻まれた表情をした一群は、かろうじて生き残った旧日本軍の元兵士たちや遺族たちである。戦場で命を落とした盟友や家族の面影は彼らの脳裏から消えることはない。体には小さすぎるスーツを着たやくざ風の一団もいれば、元日本軍を敬愛するグループは居丈高に軍人用のサーベルを下げ神風特攻隊の制服を着ている。一方、靖国神社に抗議する団体もいるが、その多くは高齢者だ。それでも警察は彼らを監視している。

さて、この場所は「亡霊」の住処でもある。かれらは靖国神社の存在理由そのものだ。靖国神社は天皇陛下を守るために戦死して「神」になった人々の「御霊」を祀っている。彼らのことを「聖なる英霊」と呼ぶべきなのか、果たしてこの言葉が的確かどうかはわからない。靖国神社が創建されたのは1869年。明治維新の一年後、日本が近代化に向かってまい進しようとする時であった。日本と異なった文化的背景を持つ人々から見れば理解しがたいかも知れないが、明治維新のすぐあと、靖国神社は厳粛な儀式と大衆向けの娯楽を一体化させた場所だった。はじめての神格化儀式では、花火が打ちあげられ、大砲が轟き、相撲の試合も行われた。靖国神社に合祀された最初の「神」は明治維新前の内戦で天皇の臣下として戦い亡くなった人々だった。その後日本が台湾統治(1894年)、韓国併合(1910年)、満州事変(1931年)、中国の東シナ海の制圧(1937年)、さらに東南アジア進出(1941年)、アジアに進出する過程で靖国神社の参拝者は増加し儀式はより大規模で豪華なものになっていった。靖国神社の霊璽簿奉安殿の名簿にはいまや2,466,532人が天皇陛下の臣下として記されている。彼らは合祀という形で祀られ天皇陛下の聖なる庇護者であるとされている。

靖国神社の教義によれば、これらの「御霊」はみな平等である。しかし世間一般からみれば決して平等とは言えない。自国のために命を落とした戦死者を祀ることに反対する人はいない。たとえ戦争を引き起こす原因が悪くても。1978年、靖国神社の宮司たちは、東京裁判で有罪となった14人の政治家と軍人を合祀した。戦時下の東條英機元首相を含め、1930年代から1940年代にかけて軍事的侵略を計画し遂行したとして戦争犯罪のために裁かれた人々だ。この14人はみな、新たに占領軍としてやってきたアメリカ軍によって処刑されるか刑務所で亡くなった。外国人のみならず多くの日本人にとっても、そのような人物たちを「英霊」として扱うことは常軌を逸する行為だった。裕仁天皇陛下の名前のもと数百万人が命を落とした戦争。裕仁天皇は靖国神社参拝をとりやめた。明仁天皇も参拝をしていない。しかし、安倍晋三首相のように保守的で護国を掲げる政治家の靖国神社参拝者は増え続けている。このような風潮に世界は警戒を強め、中国と韓国からは激しい怒りを買うことになった。

 

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特別に悪いこともせずひっそりと合祀された「霊」も多くいる。その一人が、李思炫(リー・サヒョン)だ。彼は1910年から1945年、日本軍に占領された首都、ソウルが当時京城であった頃、そこで生まれ育った。李思炫(リー・サヒョン)が育ち盛りだった1930年代、彼の故郷の城郭都市は王宮も含めすべて破壊された。日本からやってきた視察グループが街を一巡したとき、どこか異国情緒を感じさせる街を占領したとかろうじてわかるぐらいの跡は残して(韓国人の売春宿もツアーの一部だったとのことだ)。そして巨大なドームを備えた建物は長年にわたって朝鮮総督府として街の中心に陣取っていた。1940年、(まったくの作り話だろうが)皇記2600年を祝う記念塔が建設された時、天皇の臣下となることを誓う文書には140万人の韓国人学生の名前も含まれていた。

李思炫(リー・サヒョン)の娘、李熙子(リー・ヒジャ)は1943年、日本の敗戦の色が濃くなってきた時期に生まれた。この頃、アメリカ軍は太平洋の島々を次々と奪還し北上していた。すでに日中戦争は1937年から始まっており、日本は短期間のうちに戦争を終結させようともくろんでいた。しかしながら、この戦争を長く類を見ない規模の戦いに発展させたのは、厳格なクリスチャンであった蒋介石主席率いる中国国民革命軍だった。長びく戦争は日本軍の韓国や満州の占領をより過酷なものにし、その資源と人間から絞りとれるだけ絞り取った。数千人の韓国人女性たちはだまされるか誘拐同然で日本軍の売春宿に連れていかれた。さらに数万人にのぼる男性は主に日本国内の炭鉱や工業地帯に送られ強制労働に従事させられたり日本軍に徴兵された。1944年、李思炫(リー・サヒョン)も日本軍兵士の一人にさせられ、終戦の数週間前の1945年6月、彼は広東省南部で戦死した。

李思炫(リー・サヒョン)の娘は現在72歳。東アジアに住む多くの70代ののように、李さんも驚愕に値する混乱の時代を生きぬいてきた。中国と同じように彼女の祖国も内戦により荒廃しさらに分断した。しかし日本と台湾、さらにその後中国が経験したように韓国もめざましい経済的発展を遂げる。人口は三倍に膨らみ、国内総生産は以前の50倍にもなった。そして韓国はその歴史が始まって以来はじめて、民主主義国家になった。アメリカやヨーロッパで激動の時代を体験しもうすぐ人生の終焉を迎えようとする人々のなかには戦争が起こした数々の変化や体験もいまや遠い昔のできごとのように考えている人も多いだろう。しかし、個人によって差はあるかもしれないが、ひとりひとりの人生、国同士の関係においては、70年前に終わったはずの戦争はいまだにアジアの世界観を形成し政治と亡霊を鼓舞し続けている。

Spheres of power

1959年、李思炫(リー・サヒョン)はひっそりと靖国神社に祀られた。天皇陛下のために戦死しただけでなく、彼は「陛下の聖なる庇護者」 にされたのだ。1996年、娘の李さんがはじめてこの事実を知り、彼女はなんとしても父親の名前と「霊魂」を靖国神社から返してもらおうとかたく心に誓った。「わたしは活動家ではない。学者でもない。わたしは一度も会ったことがない父の娘、ただそれだけです。なんとしても靖国神社から父を連れ帰る、それが父に対して娘が果たすべき使命なのだという強い思いが私を動かしているだけです」。李さんは父が安らかに永眠できる場所はソウルの南、3・1独立運動で知られる記念碑がある天安であると考えている。1919年、数百万人の人々が日本による統治に抗議して蜂起した場所だ。数千人がなぎ倒されるように殺害されその他大勢は京城(現・ソウル)の悪名高き西大門の刑務所に収容された。

しかしながら、日本で「英霊」を分祀することは簡単ではなかった。靖国の神主たちは礼儀正しかったが譲らなかった。一度、霊璽簿に合祀された「英霊」はどのような状況でも分祀できないとそうだ。李さんは日本政府に直訴した。政府の役人たちは、合祀されたのはすべての「霊魂」が平等に扱われている証だと説明した。日本政府は、戦死した日本人兵士の遺骨を探すことには尽力するのに、父親の遺骨を捜そうとはしなかった、と李さんは付け加えた。  

靖国神社に合祀された父親の「御霊」の分祀を目指して、李さんは日本人の遺族を含む他の遺族と一緒に裁判所に訴えた。訴訟を起こすことなど、決して楽しいことではない。ごく最近、高齢になった原告があたかも勇敢に戦死したかのように誇張されていたという事実をもとに名前の抹消を要請していたケースがあったそうだ。しかしいったん「神」として合祀された人物がその後生きているとわかった場合でも、「神」になれば分祀できない。そんなことをお願いすること自体が失礼にあたるらしい。最近の最高裁判所の判決では、原告は「他の宗教に対して宗教の自由を重んじるべき」との理由で上告は棄却されている。
 
李さんは自問する。なぜ、日本の権力者は彼女のような家族が受けた恥辱を理解できないのだろうか、とても簡単なはずなのに、と。日本の首相たちはかつて日本が侵略していったことに対して、一応は謝罪をしてきた。政府は女性たちを売春宿で働かせたことに対しても責任を認めてきた。日本人だって自国民が連れていかれることの意味を理解しているはずだ。安倍首相も10年以上前に、1970年代から80年代にかけて何人もの日本人が北朝鮮に誘拐拉致されたうえ、冷酷な北朝鮮政府によって通訳やスパイとして働かされたことに対して、北朝鮮に強く抗議して政治家として名声を得たではないか。安倍首相は毎日、拉致被害者のことを想って背広の襟に青い羽をつけている。李さんは問いかける。安部首相はなぜ彼女の父親も拉致誘拐された事実を理解できないのだろうか、と。

靖国神社から分祀された例はない。
 

明治維新によって日本は世界に類を見ない速度で近代化した。それは1978年以降の中国でみられた変化とも比べられないほどだ。なにしろ、封建制を重んじる偏狭な将軍の時代から、経済力だけでなく軍事力をも備えた近代的な列強国になるまでに二世代もかからなかったのだから。作家ハーマン・メルヴィルは小説「白鯨」で日本を「二重に鎖国されている国」と呼んだが、当時の日本の政治家たちは、アメリカ艦隊が強硬に開国を要求してきたことで味わった屈辱を忘れなかった。そのために国を豊かにして強い軍隊を持つという「富国強兵」のスローガンは津々浦々に鳴り響いた。

1945年から70年間、日本は怒りにまかせた弾丸を一発も撃ってはいない。一方、1945年以前の70年間においては日本が発展するために戦争は重要だった。1874年、フォルモサ(現在の台湾)遠征から日本の膨張主義が始まった。1879年には今の沖縄である平和な琉球王朝を併合。1894年から95年にかけて清王朝と、おもに朝鮮半島を舞台に戦い結果、清国は惨敗して戦いは終結した。この敗戦によって数百年間にわたった東アジアにおける中国の支配権が奪われた。1905年には、その百年前にトラファルガーの戦いでネルソン提督が圧勝したように、日本海軍はロシアのほぼ全艦隊を日本と韓国の間に横たわる対馬海峡に抑え込んだ。そしてそれは日本の一方的な韓国併合を可能にした。

のちに日本の軍事化は非難を受ける。しかし日本がわずか数十年間に軍事強化を行い近代化に向かったことは感嘆に値する。帝国日本は海外へ進出するにあたり、かつて帝国主義をかかげた西洋諸国がやったように正義のマントをひるがえし、その合法性を主張して強硬手段を行使していった-人種差別主義さえも取り込んで。それゆえ西洋諸国は、自分たちの弟子ともいえる新しいメンバーがトップレベルにのしあがるような躍進ぶりを頭から否定することができなかったのだ。

新生日本に注目したのはアジアのナショナリストたちも同じだった。その中には、近代中国の祖と後世に呼ばれるようになる孫文もいた。革命家や知識階層は、西欧諸国に向けては毅然としたプライドと豊かさを保ちながらも、アジアにおける列強国となった日本から学ぼうと次々に東京にやってきた。留学生たちの関心は国に対する忠誠心、自己犠牲そして愛国主義の象徴でもあった靖国神社にも集まった。1880年代初頭、中国の思想家であり改革者の王韬(ワン・タオ)はこう書き残している。「日本政府が戦死者を合祀する目的は十分理解できる:大衆が愛国心を鼓舞され、心から国に忠誠を誓うことは間違いない」と。その数年後、清国は日本に敗北した。

欧州列強の帝国主義をお手本としていた日本の植民地支配の根本は暴力そして、しばしば人種差別主義を伴うものだった。しかし1930年代を迎えると事態は混沌としてきた。偉大なる国家に対する戦略的な目標が失われ、膨張主義に歯止めがきかなくなってきたのだ。明治維新以降、実権を握ってきた政治家たちは軍の暴走を食い止める抑止力を持っていたのだが、その彼らが次々と政治の舞台から消えていってしまった。1931年、軍の一部の将校たちは満州へ侵攻し占領を既成事実とした。国際連盟がこの軍事行為を非難すると日本は国際連盟を脱退、共産主義と戦うことを名目にナチスドイツと同盟を結んだ。発端は1937年、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍の衝突だった。当時の近衛文麿首相の言葉を借りれば、ここから“殲滅戦争”がはじまり、日本の中国の東シナ海沿岸海域への占領へとつながっていった。

米国MITの日本歴史学者、ジョン・ダワー氏は、現代社会では侵略を明言して戦争がはじめられるわけではない、そして日本もその例外ではない、と語っている。自国において、侵略は合法な利益獲得のための防衛手段、または自己犠牲を払っても共産主義を撲滅する名誉ある戦いなのだと表現される。それゆえ、はなから植民地主義の西洋諸国からの非難や圧力は単なる偽善だと退けられた。日本はアジアの国々を西洋の植民地支配から解放し、アジアにおける生まれつきの指導者なのだという論理だ。日本の膨張主義は汎アジア主義という哲学と精神的な思想が根底にあった。ダワー氏によれば、日本が“大東亜共栄圏"の繁栄を作り出すために、周辺国を意のままに従属させようと戦った時代は彼らにとって“美しい現代戦争の時代”だった。

日本の保守派政治家たちの多くは、未だあの時代に“美”を見出している。安倍首相は日本の富国強兵の追及はその当時もまた今日においても本質的に正しかった、そしてそれを続行していくことが日本が再び「ノーマル」な国家となる鍵となるだろうと信じている。安倍首相が使う「戦後」という言葉、それはアメリカの保護を受けてアメリカによって書かれた憲法によって海のむこうへ飛ぶ羽をもぎ取られた恥ずべき歴史の例外なのだ。
 

そのような姿勢を取ることは日本が行ったことを否定するということにはならない。ソウルの延世大学の東アジア専門の歴史学者であるジョン・デルリーは大日本帝国が戦争において他の国々とそう違ったことをしたとは言えないと論じている。他の国々もまた深刻な過ちを犯している。10万人が亡くなった東京大空襲の焼け跡や広島と長崎に落とされた原爆がそれを証明している。この観点からすれば歴史は日本に何の特別な反省や謝罪を要求してはいない。「実際、特別な反省を表明しなければならない義務があると思わないことが、遅ればせながら日本が普通の国に戻ったという印となるだろう」とデルリーは語っている。

靖国神社に話を戻そう。神社は美化された嘘に溢れている。付属の博物館、遊就館を訪れると、そこは日本が敗戦へと進んだ道のりの元凶、軍国主義がいまだに褒め称えられている。不気味な「殺人機」も堂々と展示されている。そのひとつ、「回天」(天国に戻る、という意味)は、15メートルの魚雷で、真っ黒な発射体の中には人間一人が座れる椅子と小さな潜望鏡がある。実際これは潜水可能な自殺装置だ。南京大虐殺(1937年)およびマニラ虐殺(1945年)に関しては、日本軍が数万、いや数十万人の一般市民や捕虜を、暴力と強姦で殺戮したことについては触れられていないか、否定されている。ここでは戦争の目的が常に崇高で清廉であったとされている:西欧の帝国主義への防波堤としての日本、中国軍閥の共産主義や無政府主義に勇敢に立ち向かう日本の姿である。

2013年末、安倍首相の靖国神社訪問で彼は選挙公約を実行したと同時に外交に嵐を巻き起こした。中国の外交官たちは一斉に世界中の新聞紙上の論説記事で反日感情を焚きつけた。駐英中国大使、劉曉明(リュウ・シャオミン)氏は英国の日刊紙デイリー・テレグラフに寄稿し、“靖国神社は国家の魂の最も暗黒の部分を象徴している ‘分霊箱’のようなものだ”と述べた。ハリー・ポッターの世界では、分割した霊魂を隠しホークラックス(分霊箱)に封じ込めている。魂は殺人によってのみ再び蘇ることができる。大使はこの比喩によって何が言いたいのか読者はおのずと理解してくれることを期待した。つまり大使は、安倍首相こそが日本の新しい魔界の‘ヴォルデモート卿’であると示唆したのだった。

言葉のあやとしてはまさに見事、賞賛に値する。しかし、これは少々意地が悪い言い方ではなかったか。なぜなら中国共産党は自分たちも‘分霊箱’を持っているからだ。そして、あらゆる不老不死の願いが毛沢東の遺体にこめられた時代はそう遠い昔ではない。彼の統治下、数百万人の国民が粛清され飢饉で死んだ。ところが、1976年に毛沢東が亡くなると、遺体は中国の権力の中心としての象徴、天安門広場に巨大で醜い霊廟に安置された。防腐処置を施されてはいるが遺体はゆっくりと腐敗している。

毛沢東の存在は中国の権力者たちにとって彼らの正当性を確保するために不可欠だったが、いまやそれだけでは十分ではなくなった。毛沢東の時代の暴力と悪政については共産党でさえ70%しか肯定的に認めていない。中国の経済と外交の影響力が増していくなかで、毛沢東の時代には考えられなかったほど、治世者たちのイメージがより重要になってきた現在、毛沢東の遺産は全く役に立たない。そこで、“チャイニーズ・ドリーム”の一環として、経済発展、軍事増強に呼応してナショナリズムが活性化されることになった。そのナショナリズムとは、戦時下の日本のあらゆる侵略行為に対して抗議することである。明らかに習近平主席は日本と戦ってきた記憶を新たな中国人のアイデンテイテイーとして形成する材料として利用している。

中国の指導者たちは、自分たちが戦争で果たした役割の記憶が海外でも話題にされるべきであると考えている。アメリカが太平洋における権益を誇示しはじめたのは、日本が戦争に負けた後のことだ。しかし中国が太平洋地域で権利を主張するのも、同じ敗戦によるものである。というのも当時は戦勝国だけに国連安全保障理事会の常任理事国としての議席が約束されていた。劉大使の‘分霊箱’の社説では、中国人兵士たちが連合軍と肩を並べて戦ったことに触れられていた。先月、大使は8月15日の戦後70年を記念する式典、“世界の反ファシスト戦争に対峙する中国人民抗日記念式典”に筆者を招待したのだった。
 

オックスフォード大学のラナ・ミッター教授が日中戦争に関して著した近著、「忘れられた同盟国」で述べているように、確かに中国が第二次世界大戦で貢献したことは、再評価されるべきであろう。と言うのも1937年、盧溝橋事件の勃発で起こった交戦以来1941年、日本が真珠湾攻撃を決行、アメリカが12月7日に参戦するまで中国は単独で日本と戦っていたのだから。ミッター教授は、中国がもし1938年に降伏していたとすれば、そしてそれは当時、十分ありうることだったが、東南アジアは数十年間も日本の帝国主義の支配下にあった可能性を述べている。しかし現実には中国は屈することなく戦い続け、多大な損害を被った。推定では1937年から45年の間に亡くなった中国人兵士や市民は150万人、難民となった人々は1億人と言われている。参戦した国の中では、当時のソビエト連邦だけが同等規模の被害を受けた。もっとも中国が日本を敗戦に追いこんだのではないことも事実だ。しかし、その粘り強い抵抗が数十万人の日本軍を弱体化したことも確かだろう。

これこそ世界が認識すべき中国の遺産だと習主席は言いたいのだろう。しかしながら、ここに不都合な真実がある。数十年間、公には中国共産党が中国国民党と蒋介石についてほとんど触れていなかったことだ。たとえ言及しても彼らは反共勢力として日本軍を完全に負かすには、あまりに臆病で腐敗し愛国心が欠如していたというのだ。本当の意味で、中国の“解放”は1945年ではなく1949年だった。つまり、日本の敗戦後、国民党政府が内戦に敗北した時だ。共産党が国民党に勝利した時点で初めてファシズムに勝利したことになる。

しかし、実際には頑強に戦った反帝国主義の国民党の軍隊が日本軍に抵抗したことで戦況は泥沼化した。より小規模で比較的安全な軍事拠点に待機していた共産党軍とは違い、国民党の兵士たちは数百万人の中国人のために八年間、もがき苦しみ耐え続けたのだった。もし国民党が日本との戦いでそれほど戦力を投じていなければ、蒋介石が中国内戦で勝利していた可能性は高かっただろう。

戦後、数十年間も意図的に無視されてきた中国の史実は現在、中国が推奨する新しい愛国主義の一部として注意深く部分的に修正されている。なによりも、1949年、蒋介石が国民党とともに台湾へ逃亡したくだり、中国本土が内戦のために分裂したことよりも日本の侵略に対して中国人同胞が戦ったという共通意識が強調されている。もっとも、国家がどんな理由をつけても、一昔前なら頭を上から押さえつけられるように自由に意見を述べることが難しかった人々が、今やまるで底から湧き上がるように自分たちの戦争体験を語りたいと主張しはじめているのだから。

中国の南西部の都市、重慶のニュータウンにある広々としたアパートで、花柄のパジャマを着た小柄な王素珍(ワン・スーチェン)は、三世代の家族に囲まれて大きな革のソファーに身を沈めるようにくつろいでいた。向かい側の壁を占領している巨大なテレビには、親が子育てに躍起になっている番組が流れている:父親がフリルつきバレエ用チュチュを着た娘をバレエのレッスンに連れていく。小さな子供がサングラスをかけてまるで皇帝気取りで誇らしげにおもちゃのBMWを運転している。外の重慶の街はひどいスモッグにまみれ、夏の猛暑で耐え難い。長江の流れは茶色く淀み、急な丘の中腹は暑さのために膨らんでいるようにさえ見える。

1938年、蒋介石は国民党とともに重慶に後退した。当時、中国の首都であった南京が残忍な殺戮の末、日本軍の手に落ちた次の年のことである。まさに日本の悪名を轟かせた勝利ではあったがこの時、上海も含め中国の沿岸部のほとんどすべての都市が日本の侵略者たちの思うままに制圧された。数百万人の中国人たちが蒋介石に従って重慶に逃げてきた。重慶は、終戦まで中国における暫定的首都だった。

その後の過酷な7年間、地理的に隔絶され山々に囲まれた特異な地形のために重慶は比較的防御されてはいたが、それでも戦争は常に身近に存在していた。市民の多くが爆撃で命を落とした。1941年6月5日、ある防空壕では1500人の市民が亡くなった。船乗りたちには、遺体を街から搬出し処理するための対価として、一体につき500グラムの米が支払われた。

王家は他の家族より恵まれていたほうだ。一家が住んでいたのは重慶の中心地ではなく郊外だったので、空襲をまぬがれた上に農作物を育てて売る手ごろな市場を戦時下の首都でみつけることができた。王さんがそこで生まれたのは1945年8月15日だった。戦争が終わると、家族は重慶市近郊に引っ越して刺繍や絹の絵を市の卸売市場で売るようになったのもつかのま、すぐに内戦が勃発、共産党が勝利したおかげですべてが帳消しになった。なぜならこの街が日本に対する抵抗運動の中心であったこと、戦争時代の体験を通して得たプライドが抑圧されてしまったからだ。反日戦争に勝利したことで建立された記念碑は、“解放碑”と改名された。“悪しき経歴”を持つ者、つまり蒋介石率いる国民党と重慶に来た人々は汚名を着せられた。それゆえ王さんの家族も再び田舎に強制移住させられた。

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次から次へと変わる農業政策で、王さんの母親が8人の子供たちに食事を与えるべく懸命に働いた農業集団の作物はすべて消えていった。王さんは、ある冬、人民公社に連れてこられた牛が干草が不足していたために死んだことを覚えている。そのうちに今度は人間が飢えをしのぐために草を食べはじめたが、腹が腫れてふくらみ草を食べても飢えを感じるようになった。その後の文化大革命では紅衛兵が“悪徳地主”を家から引きずりだして殴りつけていた。「なぜなんて聞けるわけがない」王さんは言う。「恐怖だった。口を閉じていないと殴られてしまう」。

1987年、王さんとその家族は人民公社を去り、自分たちで育てた農産物を市場で売りはじめ生活は楽になった。教師となった彼女の娘は政府からアパートを与えられ、家族みんなで引っ越した。1989年、初めてテレビと冷蔵庫を買った。2005年には初めて車を買うこともできた。これほどめまぐるしく世界が変化するとは、一家には思いもよらなかった。そして年長の親戚が亡くなっって以降、霊に悩まされるようになったときだった。道士が呼ばれ霊をなだめようとしたが効き目がなかった。「クリスチャンの友人たちに勧められ、神父様が平安を迎えれるよう祈ってくれるというのでお願いしたところ、うまくいきました。家族を悩ませていた霊障がそれ以来ぴったりおさまったんです」と語った。王さんは数年前、精神的にも安らぎを見つけることができた。王さんは週に三回、教会に通っている。

王さんの霊体験は珍しいかもしれない。しかし彼女の家族が歩んできた道は、ここではよくみられる典型例なのかもしれない。中国の南西部が豊かになるにつれ、戦時下の体験談を自らオープンに話せるようになった。一昔前であれば、8月15日、重慶の新聞は、北京で読まれるような国粋的で紋切り型の記事を繰り返し掲載していた。しかし今では地元の戦争で勇敢に戦った兵士を讃えている。1941年の重慶爆撃のために防空壕で犠牲となった人々のために記念碑が建てられた。岩山の頂上、黄山にあった蒋介石の隠れ家では、若い俳優が学者然とした将軍と薄い口ひげのいでたちで、ここに来る人を出迎えてくれる。

重慶が過去を取り戻しつつあるとともに、中国も愛国心が果たした役割を取り戻しつつある。それはただ共産主義だけでなく帝国主義と戦ったという過去である。しかし、このことは日本にとってどういう意味を持つのだろうか?これには日中関係の改善を示すいくつかのサインもみられる。中国の歴史をより微妙な視点から解釈するとき、かつての敵に対してもこれまでとは異なる微妙な解釈も出てくるはずだ。

王さんは顔を紅潮させて「昔からの見方を変えることができない」と言う。強い口調で「日本人は残虐でどうしても好きになれない」と話す。だが筆者が彼女が実際に日本人と直接会った経験があるかと問えば、テレビの画面に目を向けて「いや、会ったことは一度もないけれど、テレビでいつも見ているから」とうなずいた。さらにテレビの戦争映画に出てくる日本人は衣装をつけた中国人でしょう、と指摘すると、「これがすべてプロパガンダだということは知っています」と彼女は笑い、また家族たちと一緒にピンクのバレエの衣装に身を包んだ女の子に釘づけになった。

習主席が昔の敵を持ち出して、現在の愛国的アイデンティティを強化することに対しては懸念がある。しかし中国がこれまでなかった豊かな社会になった現在、他にもさまざまな考えがそこかしこに認められるようになった。王さんは、独り言なのか果たして筆者に言っているのかわからないが「だけど過去が懐かしいなんて誰も思わない」と小声でつぶやいた。

安倍首相が親しく交わっているのは靖国神社の「英霊」だけではない。2012年の総選挙に勝利した彼はすぐさま祖父の墓参をしてある約束をした。祖父、岸信介も孫同様、1957年から1960年まで首相を務めた。熱狂的な愛国者であった岸首相は、アメリカに対して日本の敗戦を認めたことで、弟の佐藤栄作と同じように戦後はしばらく政界から退いていた。自分の政治生命を取り戻すより、まずは日本の経済力を回復すことを優先したのだった。しかし、岸はこの点で確信していた。政界から鳴りを潜めるのはほんの一時的なことだと。

1965年、岸首相は「日本の敗戦とアメリカ軍の占領という戦後を完全に打ち消すには、日本は再軍備をする必要がある。日本が戦後という軛から放たれ、日本人が自信とプライドを取り戻すためにも」と論じたと言われている。岸の言葉を安倍首相はマニフェストで引用したかもしれない。いずれにしても安部首相が祖父の墓前で誓ったのは「本当の意味で日本が再び独立国家となる」ことだった。

安倍首相が反アメリカであるというわけではない。彼の祖父がそうであったように彼も日本の国の安全を確保するためアメリカを必要としている。彼は両国の軍事同盟を強化し、4月には中国の台頭に対応すべく防衛ガイドラインの見直しにも同意した。しかし彼は「日本の崩壊の歴史」におけるアメリカの役割に対して強い思いがある。それは必ずしも戦争による物質的な荒廃だけでなくその後のアメリカによって押し付けられた秩序も意味している。アジアを征服した日本のリーダーたちを絞首刑にしておきながら、同時に西洋は再度アジアの植民地に権力の手を伸ばしているという欺瞞とう視点から彼は東京裁判を憎んでいる。また彼は現憲法は日本が国として合法的な願いを追求することさえも阻むよう押し付けられたものと見ている。そのうえ左翼的な戦後教育のせいで戦争の罪悪感と愛国心をそぐようことが徹底して教え込まれたではないか。

戦後の秩序はその後70年の平和で豊かなそして安倍首相の自由民主党が大いなる恩恵を受けてきた民主主義ではそういった理解のまか受け継がれていきた。しかしアメリカはそういった日本の国粋主義者をダブルスタンダードだと非難する立場にはない。裕仁天皇の名のもとに戦争犯罪が遂行され、天皇こそ政治システムの中枢にいたにも関わらず天皇を戦争責任に問わなかったのはダグラス・マッカーサー将軍だからだ。証拠はないが、天皇制を保持したほうが敗戦で打ちひしがれた人々との戦後交渉がやりやすくなるのではないかという、なかば信じがたい理由からだと言われている。そしてこの決断こそ、日本が行った行為及び軍事化の強化を論議するべきかどうか議論を行うのを困難にしているのだ。さらに冷戦は日本がそういった決断をする残り少ない機会を取り去った。なぜならアメリカは経験をつんだ保守的な日本を同盟国として必要としたからだ。東京裁判において最初の一束の判決が下されるや否や、他のA級戦犯として訴追されていた者は巣鴨刑務所から釈放され権力の場に就いた。
 

釈放されたひとりは中国北東部の傀儡国家である満州国を操っていた首謀者であった。民間からの資金を政府主導の経済へ注入することで、彼は満州を日本が戦争をするための資金供給源とした。ノース・カロライナ大学のマーク・ドリスコル氏は、人間性を否定された中国人強制労働者の「囚われの身」からこのシステムについて記述している。この試験的で超現代的国家は残忍な人的犠牲を払ったにも関わらず、いまやほとんど忘れられている。しかし、民間資金と国家主導の融合は、戦後日本の発展に直接息吹を与え、日本のみならず、韓国や中国にも同じ方法が適用された。ではこの黒幕は誰なのか?それはほかならぬ岸信介であった。

日本国の真髄は、明治維新で制度として編纂されてそこからすべてが生まれてきたと安倍首相が信じているのは正しくはない。しかしながら日本の戦前と戦後の継続性すべてを否定することも間違っている。すべての面で「亡霊たち」は封じ込まれているが、彼らも発言することを許されて、複雑に絡み合う戦争の真実、さらには戦争被害者についてどう考えているのか、彼らの意見にも耳を傾けるべきなのではないだろうか。

徐明(シュウ・ミン)さんは、子供の頃、母親が彼女の手をとることなくはじめてひとりきりで家から外に出た日が忘れられない。彼女は他の子供たちと一緒に遊んでいいか、聞いてみた。ある子供が「だめ」という。「なぜ?」と聞き返してみたところ、「お前が邪悪な日本の鬼だからだ」という答えがかえってきた。すると背の高い子供が割り込んでこう言った。「じゃ、いいよ、一緒に遊んでやる。でもお前は犬だ。僕たちのあいだを這いつくばってワンワンと言え!」彼女はそのとおりにしてみた。でも子供たちは彼女を殴り始めた。

徐明(シュウ・ミン)さんは満州の一部であった中国の北東部、黒竜江省で1945年に生まれた。岸信介が商工大臣として満州から日本へ呼び戻された3年後のことだった。一人っ子の彼女は、両親にとても愛情深く大事に育てられた。ところが学校でひどいいじめにあうようになる。彼女が7歳のとき、共産党の軍隊が虐殺を平気で行う「悪の日本軍」と戦い勝利に輝くという映画をクラス全員で見に行くことになった。まわりの子供たちはみな「日本人を倒せ!」と叫び始めた。そして彼らは一斉に彼女につばを吐いた。映画が終わったあと先生が点呼をとったが彼女がみあたらない。そして先生は徐明(シュウ・ミン)が椅子の下にかくれて目を真っ赤にして泣いているのを見つけた。先生はクラスの生徒たちを叱りつけ、「徐明はまだ子どもです。そして映画は映画でしかありません」と諭した。この日徐明は将来自分も教師になろうと心に決めた。

一年後のある日公安局の役人が彼女の家にやってきた。徐明(シュウ・ミン)は外に出ているよう言われたが、会話に聞き耳をたてていた。役人は、「お前は日本人の子供を養子にしたのだろう、白状しろ!」と叫んだ。母親は泣き出した。徐明は母親の元に走って行き彼女をなぐさめた。母と娘があまりにも泣き続けるものだから、役人はそれ以上質問するのをやめて帰っていった。

そのとき徐明(シュウ・ミン)は母親に尋ねた。「わたし本当は日本人なの?」

「そうだよ、おまえは日本人なんだ」、それが母の答えだった。

終戦時外地にいた日本人600万人が難民となった。彼らの物語は不思議なくらい日本でもあまり語られてはいない。半分以上が帰る場所がなくなった兵士たちでその多くが負傷したことが原因でまたは栄養失調で亡くなっていった。ほかに残されたのは事務員、銀行員、鉄道職員、農民、工業関係者、売春婦、スパイ、写真家、理髪師、そして子供たちだった。彼らとその家族、故郷の友人たちにとって、そして徴兵された、あるいは亡命した中国人や朝鮮人にとっても状況は似たりよったりだった。彼らにとって、8月15日は本当の意味の終戦ではなかった。敗戦から一年後、日本に帰国できなかった人々は200万人。彼らの多くが二度と故郷の土を踏むことができなかった。公共ラジオ放送は、「尋ね人」という番組を1946年にスタート。番組は1962年まで放送された。

連合軍は、降伏した兵士たちを有効に利用することを考えた。アメリカ軍は、太平洋の米軍基地で7万人の元日本人兵士たちを労働させた。この上なく皮肉なことだが、イギリスは「解放された」ばかりのはずの東南アジアの元植民地の統治を復権しようと10万人の日本人元兵士にを現地で働かせた。中国では数万人の日本人兵士が、内戦の敵味方の両側で従軍させられた。 

元日本兵にとって最大の不運は、ロシアに「保護」されることだった。終戦の1週間前になって宣戦布告したソビエト連邦は満州と北朝鮮で日本軍の降伏を受け入れた。おそらく約160万人の日本人兵士がロシア軍の捕虜になった。1947年末までに62万5千人が本国に移送されてその多くがシベリアの強制労働収容所に送られ、過酷な環境のもとでイデオロギーを叩き込まれた。なかには朝鮮半島を南へ下り、アメリカ軍が管理する区域へたどり着くことができた者もいた。1949年はじめ、ソ連は9万5千人の日本人が残留していると公表した。日本とアメリカのは30万人が行方不明という数字を計算していたのだが。

1945年、満州にいた日本人市民は100万人だった。そのうち約17万9千人が母国へ戻る混乱の中で、あるいは降伏しているにもかかわらずソ連兵たちの暴力のために、さらに1945年から46年の過酷な冬の寒さのために命を落とした。日本へ帰りついた孤児の中には、家族の遺灰を箱につめて首にかけていた子供たちもいた。そして満州では日本人の親たちが、一番幼い子供の面倒をみてくれるよう中国人の農民たちに懇願していた。

徐明(シュウ・ミン)の実母もそういった家族のひとりだった。彼女の父親は旧日本軍に従軍、シベリアへ連行されてしまった。母は娘のうちで一番小さく生まれたばかりの徐明(シュウ・ミン)が日本までの長旅を生き延びられないと考えた。彼女はある中国人家族に赤ん坊を託したが、子供が3人もいたその家族は赤ん坊をすぐに子供がいない徐家に売った。

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やがて徐明(シュウ・ミン)さんは教師の試験に受かった。彼女は成績優秀で、本来ならば前途有望だった。しかし、その後の数年間、黒竜江省の人里離れた深い森のなか鬱屈とした小屋で彼女は林業作業員の子供などを教えることになった。「こればかりはどうしようもない」彼女の教員学校の先生は言った。「あなたは日本人だから」。そして文化大革命の時代、材木置き場傍の住居では、とうもろこしの外皮や樹皮をパン代わりにした。しかし人里離れたこの場所ではこの時代にありがちだった極端な行為はみられなかった。一方、徐明(シュウ・ミン)さんの故郷の街では優しくて働き者の日本出身の歯医者が往来に引き出され、「自分はスパイである」という看板を首から下げられて、町中をひきまわされた。「スパイじゃないか」と詰問されるたびに、違う!と答えるると殴られた。そして三日後、彼女は亡くなった。

田中角栄首相は1972年に訪中、かつての敵国に数億ドルの政府援助を約束した。やがて離ればなれになった家族を探して黒龍江省に日本人たちがやってくるようになった。あるジャーナリストが日本のメディアで徐さんが血縁者を探せるかもしれないと、尋ね人の記事の掲載を約束してくれた。そしてその記事を読んだ北海道在住の高齢の元兵士が彼女こそ自分の娘だと名乗りでた。1981年、徐さんはついに日本行きのビザを取得した。彼女は祖国へ行けるということだけでとても興奮した。老兵士との面会はとても感激的だった。しかしDNAテストの結果、老兵士は彼女とは血縁関係がない全くの赤の他人だったということが判明した。

日本の役人たちは徐さんを国外退去にしようとした。中国の裁判所の文書が「彼女は日本人である」と証明しているにも関わらず、それだけではなんの役にたたないというのだ。日本に滞在し続けるために裁判所と闘いながら、彼女は「満州の残留孤児」のために活動する非営利団体でボランテイアをはじめた。ある朝、近くの喫茶店に座っていると、そこへ行く途中で立ち寄ったというふたりの日本人女性が、除さんのテーブルに座ってもいいか尋ねた。「もちろんです、どうぞ」と徐さんはややたどたどしい日本語で答えた。彼女たちは徐さんが中国人なのか、もしそうならどこから来たのか聞いた。「黒竜江省です」、と答えると、ふたりは、自分の母親がかつて妹を残してきた場所だと話した。聞けば聞くほど、偶然にしては事実関係が重なっている--住んでいた街の名前、徐さんを預けたの李という家族、そして李家の家は線路のすぐ近くだったこと。3姉妹は1945年以来、今日この場所で初めて対面していることを確信した。徐さんは自分の名前が池田澄江だということをはじめて知った。しかし残念なことに母親はわずか数ヶ月前に亡くなったということを聞いた徐さんの落胆と悲しみは深く大きなものだった。だか少なくとも、彼女のさまよえる魂はやっと安らかに落ち着ける場所にたどり着けたのだ。
 

第二次世界大戦に翻弄された人々の人生はもうすぐ終わりを迎えようとしている。しかし彼らが形成してきたアジアの歴史は、今後も子供たち、孫たちの世代へと受け継がれていく。あるところではゆがめられ、あるところでは否定されながら。犠牲者も勝利者も、歴史に名を残す者もいるだろう。そして多くの人々はただ静かに忘れられてゆく。

1960年代、現在よりリベラルな考えの宮司が、靖国神社のかたわらに戦死した敵国人の魂を祀るため小さな「鎮魂社」を建立した。それは現在、柵で囲まれ 一般には公開されていない。毎年7月にやってくる「みたままつり」では、若い神主がひそかに果物を供え物として神殿の前に置きそっと立ち去っていく。上官に失望してニューギニアのジャングルの中で飢えと疫病のために死んでいった若い兵士たち、本土空襲と攻撃がはじまり亡くなっていった数百万人の市民たち、日本の侵略で亡くなった犠牲者たち、しかし彼らの霊魂とは靖国神社では会うことができない。なぜなら靖国神社は戦争で名誉の死を遂げた者以外を記憶しないのだから。

「でも過去が懐かしいなんて思う人がいるもんですか?」王さんが重慶のアパートのソファで語る。
一体誰が?そうかもしれない、過去には懐かしさだけでは語りつくせないものがある。

 

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